湘南キリストの愛の教会
キリストの福音
「キリストの再臨に備える」
愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。(マタイ25:3,4)
これは花婿を迎える娘たちで、キリストの再臨を待ち望むクリスチャンのことです。賢い娘たちは、花婿を迎えるまでの間、自分のともしびを絶やさないよう、入れ物に油を用意していました。この油は、キリストに日々信頼し従う生きた信仰であり、御霊によるキリストを愛する歩みを表します。愚かな娘とは、キリストを救い主と信じていても、自分に不都合な時には、キリストに信頼せず従わないクリスチャンを指します。キリストを信じた後も、みことばに従い祈りを励み、絶えずキリストのみこころを求めて歩みましょう。
「主イエスに喜ばれる献げもの」
この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。(マルコ12:43)
ある日、主イエスは献金箱に向かって座り、人々が献金箱へお金を投げ入れる様子を見ておられました。多くの金持ちがたくさんのお金を入れましたが、一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二枚(今の日本で150円ほど)を入れました。主イエスが「だれよりも多く」と言われたのは、実際の金額のことではなく、彼女は乏しいのに財産すべてを献げたからです。それは神に愛され神に守られていることへの感謝、すべては神から与えられ神が必ず養って下さるという信仰の表れでした。その信仰を主イエスは喜ばれました。
「御霊による一致を保つ」
謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4:3)
クリスチャンは主イエスに召され、そのみこころに相応しく歩むために一致が必要です。妥協や打算や強制による一致ではありません。御霊による一致であり、主イエスを信じて神の愛の心を持ち、誰でも体験できる一致です。教会には年齢、性格、生い立ち、立場等、様々な違いを持つ方々が集われますが、神の愛の力が与えられ、互いを赦し合い、受け入れ合い、尊重し合います。また愛による一致を求める者は、キリストに対する信仰と知識に成長し、人々の悪巧みや策略に振り回されない成熟したクリスチャンとなります。
「私をさばく方はキリスト」
私をさばく方は主です。(コリント第一4:4)
神だけが唯一正しいさばきをされます。神は私たちの隠れた秘密や苦悩する思いをすべて知っておられます。神は私たちの動機をすべて知っておられます。ベタニアのマリアが高価なナルドの香油をキリストに注いだ時、イスカリオテのユダがそれを貧しい人のために使うべきだと彼女を厳しく責めました。聖書はユダが会計係でありながら金を盗んでいたと証言し、キリストはマリアがキリストの葬りの日のために行動したと喜ばれました。キリストは、立派に見える行動が最も自己中心的な動機で行われたことを知り、無駄に見える行動が最高の愛による動機で行われたことも知り、正しく判断される唯一の御方です。
「互いに愛し合いなさい」
わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)
キリストは私たちに新しい戒めを与えられました。キリストが私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うべきだということです。キリストの言われた愛は、神の愛する全ての人々を愛しなさいということです。犠牲を払う愛、与え尽くす愛、苦難を耐える愛で愛しなさいということです。私たちは、自分を嫌う人、自分に反対する人を愛することはできません。自分を犠牲にし、苦難を受けてまで他人を愛することはしません。しかし、キリストを信じる者には聖霊によって神の愛が注がれ、神の愛で互いに愛し合うのです。
「主キリストによる洗足」
イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。ご自分が神から出て、神に帰ろうとしていること知っておられた(ヨハネ13:1,3)
聖書は、奴隷のように弟子たちの足を洗われたキリストの謙遜を「キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」と記しています。キリストが弟子たちの足を洗い始められた時、冒頭のみことばが記され、神的威厳に満ちた神の御子、キリストご自身が、愛をもって罪深い者の足を自分を裏切る者の足まで洗われたのです。
「弟子の足を洗うキリスト」
それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。(ヨハネ13:4~5)
キリストが十字架にかけられる時が迫っていました。キリストは弟子たちと最後の食事をし、その最中に席を立ち、弟子たちの足を洗い、腰の手ぬぐいで拭き始められました。当時これは奴隷の仕事でした。キリストが十字架にかかられる直前なのに、弟子たちは誰が一番偉いかと醜い議論を交わしていました。その弟子たちに、キリストは謙遜であることを教え、人の先に立ちたいと思う者はしもべになるべきだと模範を示されました。キリストは私たちを罪から救うために十字架でいのちを捨て、私たちに仕えて下さったのです。
「キリストの愛にとどまる」
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。(ヨハネ15:9)
キリストは私たちが罪と汚れに満ち、私たちに愛される何の価値も資格もないのに愛して下さり、その愛のゆえに、私たちを罪の泥沼、永遠の滅びから救うために十字架の上で死んで下さいました。聖書に「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかったのです」ともあります。キリストの十字架は事実であり、その十字架により体験するキリストの愛と救いも事実です。最低最悪な環境や状態でも、「決して見放さず見捨てない」キリストの愛を信じてとどまりませんか。
「高齢者カレブの信仰」
モーセが私を遣わした日と同様に、今も私は壮健です。私の今の力はあの時の力と変わらず、戦争にも日常の出入りにも耐えうるものです。(ヨシュア14:11)
これは85歳になったカレブの信仰の証詞です。エジプトから二百万もの人々が奴隷から解放されたと言われますが、殆どが荒野で死に絶えてしまい、45年後にその息子や孫の時代になって、約束のカナンに入れたのはこのカレブとヨシュア二人の老人だけでした。カレブは、みことばを信じて従い続け、神の約束がどんなに真実であり、間違いがないかを経験したと証詞しました。聖書の言う信仰は神との関係です。カレブは、約束に真実な神を信じ続けることで、神に対する変わらない信仰を身に着けたことを証詞しています。
「死による疑惑と主の勝利」
主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(ヨハネ11:32)
ベタニアのマリアとマルタの兄弟ラザロが病気で死にそうです。直ちに主イエスに助けを求めて使いが送られました。「しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまれた」とあります。使いが主イエスの所に着いた時、ラザロは既に死んでしまったようです。なぜこのように遅らされるのか、彼女たちの心には疑惑の嵐が吹き荒れていました。しかし、主イエスはラザロを生き返らせるために、病気を癒やされなかったのです。主イエスはいつでもその愛で最高の計画を用意しておられます。
「キリストにとどまる信仰」
わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。あなたがたもわたしにととまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネ15:4)
ぶどうの木に枝がとどっていなければ枝だけでは実を結べないように、キリストにより神のいのちにつながっていなければ、人生に本当の愛や喜びや平安の実は結べないのです。キリストは私たちの霊的な力の源であり、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」とも言われました。キリストとの関係がなければ私たちは霊的いのちを失い、永遠に価値ある存在ではなく、良い実を結ぶこともできません。まことのぶどうの木であるキリストにとどまる時、キリストの愛といのちが溢れ流れる人になります。
「第一の命令を実行する信仰」
第一の戒めはこれです。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(マルコ12:29,30)
キリストが宗教家たちの意地悪な質問に見事に答えられたのを見て、ある律法学者が「すべての中で、どれが第一の戒めですか」と尋ねました。キリストの教えの中心を知ろうとしたのかも知れません。キリストは、上記の聖句が第一の戒めであり、第二の戒めは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と答え、これらよりも重要な命令は他にはないと言われました。キリストはすべてをもって神を愛し隣人を愛することを求めておられます。キリストを信じる者には聖霊により神の愛が注がれ愛に生きる人生が始まります。
「信仰の勝利に与るクリスチャン」
ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。(マタイ14:30,31)
信仰の勝利は危機を孕んでいました。それは、ペテロがキリストから目をそらした瞬間のことです。キリストご自身、その愛、その知恵、その力から私たちの目が離れることが問題なのです。しかし、ペテロを掴んだキリストの御手は決して離すことはありません。もはやペテロは強風や荒波を見ることなく、ただ彼の手を握りしめておられるキリストのみを見つめていました。キリストに掴まえられたペテロは、嵐の中で波の上を共に歩くというキリストの勝利に与り舟に向かいました。みことば従い続けることこそ勝利なのです。
「苦しむ人生からの救い」
すると、すぐに血の源が渇いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
「あなたの信仰があなたを救ったのです。」(マルコ5:29,34)
長血を12年間患っていた女性です。婦人科の病気で出血が止まらず、当時は汚れた者として宗教行事からも除外されました。この病気のために家族との関係も絶たれ、社会から抹殺された人です。貯蓄を使い果たし、病状は更に悪化し絶望的状況で、彼女はキリストのことを聞き、キリストの救いを信じて、キリストの衣にこっそり触れ、すぐに救いを実感しました。聖書は肉体的病気すべてが癒やされるとは言っていません。しかし、長い間毎日続く辛く、寂しく、空しく、苦しい人生が、キリストを信じて確かに変えられます。
「信仰の挑戦をするクリスチャン」
ペテロが「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。イエスは「来なさい」と言われた。(マタイ14:28,29)
ペテロは、水の上を歩いたと自慢したくてこう言ったのではありません。そうならば主イエスは「来なさい」とは言われなかったでしょう。主イエスの平安に早く入りたくて彼は主イエスの御許に近づきたかったのではないでしょうか。ペテロは全く前進できず恐怖をもたらす荒波で自分の無力さを実感し、同時に主イエスの御力に信頼しました。主イエスはご自分の権威をペテロに体験させるために「来なさい」と言われました。みことばを信じて水の上を歩いたペテロのように、みことばに従う者は主イエスの御業を体験します。
「信仰の目を持つクリスチャン」
舟は向かい風だったので波に悩まされていた。夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。(マタイ14:24,25)
弟子のペテロの目が捕らえたのは、嵐の厳しさでした。風は強く、舟を漕いでも前に進めませんでした。病気、貧乏、人間関係等の問題に悩み、多くの方が人生に行き詰まりを覚えます。「まだ大丈夫」と思っても、嵐は最悪へ進みます。しかしペテロは嵐の中でキリストを捕らえました。荒波で舟が沈む恐怖に脅えていた弟子たちのところに、主イエスは湖の上を平然と歩いて来られました。嵐の中でも揺るがない平安に満ちた主イエスは、人生の嵐で恐れる私たちに「わたしだ。恐れることはない」と圧倒的救いを約束されます。
「群がる者か触れる者か」
彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。(マルコ5:27)
この女性は12年間病気で、助けを求めた多くの医者からひどい目に合わされて、貯蓄もすべて使い果たしました。ところが何のかいもなく、更に悪くなりました。この絶望的な状況で主イエスのことを聞き、彼女は群衆に紛れて、後ろから手を伸ばして衣に触れました。「主イエスの衣にでも触れれば、必ず救われる」と思っていたからです。主イエスは彼女の信仰に応えて、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。主イエスの側に群がる者でなく、主イエスの救いを信じて触れる(受け入れる)者が救われるのです。
「神の命令に従い神の約束を得る」
「立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」(創世記13:17)
「歩き回りなさい」は命令であり、「与えるのだから」は約束です。信仰はただ聞くだけではなく、それを実践することが要求されます。「だれかが自分には信仰がると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか」(ヤコブ2:14)。アブラムはその地を確実にその足で踏みしめる必要がありました。愛の必要を理解しても、愛は実践されなければ何の価値もありません。信じれば救われると聞いていても、キリストを受け入れなければ救われません。
「隠していた罪を捨てる」
ロトがアブラムから別れて行った後、主はアブラムに言われた。「さあ、目を上げてあなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。」(創世記13:14)
ロトはアブラムの弟の子で早く父を失い、しかもアブラムには子がなく、アブラムはロトをわが子のように愛していたかも知れません。神はアブラムに「あなたの親族と離れて」従うように言われましたが、ロトを連れ出したアブラムの服従は不徹底なものでした。ロトとは覆うの意で、ロトの存在はアブラムにとって罪の真相を覆うものでした。「ロトがアブラムから別れて行った」とは、アブラムが隠していた不従順を捨てて神に従ったことを意味します。あなたもロトから離れるならば、神はあなたへの祝福の計画を進めます。
「アブラハムの服従による回復」
全地はあなたの前にあるではないか。私から別れて行ってくれないか。あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう。(創世記13:9)
アブラハムは神のみことばを一部保留し「ロトも一緒」に連れて行き、そのため悲惨な事が起きました。しかし彼は初め信仰に立ち返り神を礼拝しました。ところがアブラハムもロトも所有するものが多くて一緒に住めす、アブラハムとロトの羊飼いたちの間に争いがありました。アブラハムが保留したことに服従する機会を与えて、神がわざわざこの状況を用意されたようです。アブラハムはその機会を捕らえて「私から別れて行ってくれないか」とロトに告げ、神の祝福の道を選びました。神はあなたの服従を待ち望んでいます。
「アブラハムの保留とその悲惨」
アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。(創世記12:4)
主イエスはアブラハムに「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて」と言われましたが、彼は「ロトも一緒」に連れて行きました。その後、アブラハムが主イエスの御名を呼び求めても、主イエスが彼に語られることは次第に少なくなり、全く語られなくなります。聖書は「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある」と語ります。この保留は遂に悲劇を呼びますが、その道は早くそこから出るようにとの神のみこころから故意に難しくされています。みことばに素直に従いましょう。
「神ご自身と一緒に行く人生」
あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、あなたを祝福し(創世記12:1,2)
神はアブラハムを召された時、土地と親族と父の家を離れるように、また神が示す地へ行くように言われました。彼がこれからどの道を通るのか、全く説明がありません。神が私たちを選ばれる時も進路の説明はありません。神は、私たちの心がこれから導かれる進路ではなく、導いて下さる神ご自身に向くことを求めておられ、先ず神と神のみことばを信じることを願っておられます。アブラハムは、どこに行くかは知りませんでしたが、誰と一緒に行くかはよく認識して出発しました。神ご自身と一緒に行く人生こそが祝福です。
「キリストの証人となる」
聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒1:8)
キリストに従う者にはキリストの証人になる召しが計画されています。キリストの十字架による罪の赦しを信じて永遠のいのちを持ち、キリストを心に受け入れキリストがともにおられることを知るのがキリストの証人です。キリストを自分の口で語り、自分の生活でキリストを示すのがキリストの証人で、どこにでも誰のところにも出て行き、それは「地の果てまで」です。それを不可能だと思う者に、キリストの証人になるための力が約束されています。キリストの証人は聖霊の力を受け遣わされてキリストの臨在を証詞します。
「人生の嵐の中での平安」
イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。(マルコ4:39)
弟子たちの乗った舟の中にキリストがおられたのに、彼らは嵐にあったのです。クリスチャンであっても、人生の苦難の嵐を避けることはできません。私たちが一生懸命に努力し、真面目に生活し、神に信頼していても、人生には台風、地震、火事等が襲って来ます。また貧乏、病気、家族不和、裏切り、孤独、死別という苦難の嵐の中に置かれます。けれども、キリストの福音は、苦しみに対して目や心を閉ざしたり、苦しみから逃げ出すことを教えるのではなく、この苦しみを本当の喜びと平安に変える秘訣を教えるのです。
「苦難の中で平安を得る」
これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)キリストの平安とは、戦いも矛盾も葛藤もないことではありません。シカゴの弁護士スパフォードは、四人の子どもと共に船でヨーロッパに向かった妻から、船が沈没し「私だけがひとり助かった」と電報を受けました。彼は悲しみのどん底に落ちましたが、やがて一つの詩を作りました。「安けさは川のごとく心浸す時 悲しみは波のごとく我が胸満たす時 すべて安し み神共にませば」。悲しみの只中でも川ように流れる平安、十字架を前にしても揺るがないキリストの平安を体験しませんか。
「キリストの平安を待つ」
わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。(ヨハネ14:28)
世が与える平安は、臭いものに蓋をするごまかしの平安です。一見平和のよう見えても、また問題が起こると揺れて続かない条件付きの平安です。世の与える平安には、人を本当に平安にする力はありません。キリストの平安とは、聖書に「私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」とある、キリストの十字架によって勝ち取られた神との平和を持つことです。キリストを心の中に迎えた人は、愛と力に満ちたキリストと共に歩み、何も思い煩わないで、人のすべての考えにまさる神の平安に守られるのです。
「自己憐憫による交わりの破壊」
すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。(ルカ15:28)
父親が「おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と喜んでいるのに、兄息子は弟息子を「あなたの息子」と呼び、喜びに溢れた「家に入ろうともしなかった」のです。自己憐憫は教会や家族の親しい交わりを破壊します。誰かに対して不平を持ち続けたために自己憐憫に浸っているのです。しかし聖書は「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです」と言っています。キリストの十字架による愛は、赦し、愛する者と変えるのです。
「自己憐憫による喜びの破壊」
すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。(ルカ15:28)
この兄息子のたとえは、父親に無視されたと思い込んで苦しむ話であり、その自己憐憫は神の前に本当は罪であることを明白にする教えです。色々な種類の不平の思いにふける人は、自己憐憫に陥ります。陰気で不機嫌で怒り、満足も明るさも平安もなくなり、その喜びは破壊されています。すべては、誰かに対して不平を持ち続けたためです。しかし聖書は「御霊の実は、愛、喜び、平安」と言っています。キリストを信じて、キリストを第一にして従う者に、神の御霊による実が結ばれ、その心は深い喜びと平安に満たされます。
「復活のキリストを信じるしるし」
しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」と言った。(ヨハネ20:25)
他の弟子たちがすでに復活のキリストを目で見ていたので、トマスも自分の目で見て、十字架の死の前に自分が知っていた同じキリストであることを確かめたかったのです。反論できない確かな証拠は、十字架の苦しみのしるし、すなわち手と脇腹の傷跡です。トマスはそのしるしを見て、キリストの復活を確信するのです。今日も人々はクリスチャンの中に、復活されたキリストを、十字架の苦しみのしるしを見たいのではないでしょうか。復活された生けるキリストを愛する者が受ける傷跡、愛による犠牲のしるしを見たいのです。
「キリストによる十字架への派遣」
イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20:20,21)
復活のキリストが弟子たちのところに来られたのは、その手と脇腹の傷跡を彼らに見せるためでした。以前、キリストがご自分の十字架の死と三日目の復活を語られた時、ペテロは「とんでもないことで、起こるはずがない」と言いました 。キリストは彼を「あなたは神のことでなく、人のことを思っている」と厳しく注意されました。キリストは私たちをも自分自身が担うべき十字架に遣わし、キリストのために受けた傷跡があるかどうかに深い関心を持っておられるようです。その傷跡こそがキリストに従う者の証拠だからです。
「復活のキリストの臨在」
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内に燃えていたではないか。(ルカ24:32)
キリストの十字架の死で救いの望みが絶たれたと思い、キリストの復活の知らせが信じられない二人の弟子を変えたのは、復活されたキリストの臨在です。私たちが今どんなに絶望的な状況にあっても、キリストは決して見捨てずに私たちと共におられます。今の状況に真の希望と喜びを与えるのはキリストの臨在です。キリストが来られる時、罪からの救い、自己中心から解放、永遠のいのちが与えられます。私たちの人生を永遠に価値あるものとするのは、心と生涯に復活のキリストの臨在を招き入れる、このことによるのです。
「失望した私たちに向き合うキリスト」
話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。(ルカ24:15)
復活のキリストは失望の中にあった二人の弟子に近づいて共に歩まれたように、私たちの人生に向き合って下さいます。二人は目が遮られてキリストだと分かりませんが、キリストは彼らの失望の理由を聞き、その心が鈍くみことばを信じないことを愚かだと断言されました。キリストは彼らを聖書に向かわせ、ご自分の十字架の意味を説き明かされました。更に食卓でパンを裂き二人に渡された時、彼らは目が開かれキリストだと分かりました。たとえ今どんなに失望した人でも、キリストのみことばを信じて希望の人に変わります。
「一緒に歩む復活のキリスト」
イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。(ルカ24:30,31)
二人の弟子がエルサレムからエマオに向かって歩いていると、キリストが近づいて来て、彼らと一緒に歩き始められました。しかし失望し悲しむ彼らには、キリストだと分かりませんでした。キリストが聖書から、十字架につけられ三日目によみがえられたナザレのイエスこそ約束された救い主であると解き明かされると、彼らの内なる心は燃えました。キリストが夕食のパンを裂いて祈り、弟子たちに分け与えられた瞬間、彼らの目は開かれ、キリストであることが分かりました。キリストは悲しみの中でも同伴して下さるのです。
「罪のないキリストの十字架」
この人がどんな悪いことをしたというのか。彼には、死に値する罪が何も見つからなかった。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。(ルカ23:22)
総督ピラトはキリストを慎重に調べて三度にわたって罪はないと宣言しました。彼はキリストが無罪であることを確信し、キリストを無罪にすることもできました。彼は指導者たちや民衆を喜ばせようと思い、むち打ちにして釈放しようとしましたが、人々は「十字架につけろ」と大声で叫び続けました。ついにピラトは暴動と皇帝からの嫌疑を恐れて死刑判決を下しました。罪のないキリストが私たちの罪のために自らのいのちを投げ出されました。私たちの罪がすべて赦される道は罪のないキリストの十字架以外にないからです。
「キリストを裏切るペテロ」
彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。(ルカ22:54)
キリストは逮捕され、ペテロは遠く離れてついて行きました。弟子たちはみなキリストを見捨てて逃げましたが、ペテロはキリストを連行した人たちを恐れながらもついて行きました。数時間前、「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と断言したペテロは、「あなたはイエスと一緒にいました」と言われて三度も「そんな人は知らない」と否認しました。キリストは「振り向いてペテロを見つめ」、「外に出て、激しく泣いた」ペテロは自分の罪を悔い改めました。
「天の御国に入るための信仰」
まことに、あなたがたに言います。悔い改め子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。(マタイ18:3)
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」。聖書は、救われて天の御国に入ることが神のあわれみにより非常に単純なことだと教えています。それは丁度、友人を自分の家に歓迎するように単純なことです。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って」。キリストに、私たちの心と人生の中に入って下さることを求めるなら、キリストは約束通りにそうして下さり、私たちはキリストの救いを確信できます。
「天の御国に入るための悔い改め」
まことに、あなたがたに言います。悔い改めて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。(マタイ18:3)
天の御国に入るためには、人間的な特権や個人的な力量ではなく、また多くの聖書知識や立派な行いではなく、神との関係が重要です。聖書は、人間は生まれながらにわがままで自己中心な罪人であり、神から離れて行く方向に進むと語ります。悔い改めるとは自分の罪を悔いて改めることです。後悔や懺悔とも違います。回れ右のように心の方向転換をして、本気で神と神のみことばに向き合うことです。具体的には、神の前に自分の過去の罪を認め告白し、その罪を捨てる決心をすることです。悔い改めなしには救いはありません。
「死の解決は罪の解決から」
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)
罪の力について、キリストは「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」と言われ、パウロは「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです」と告白しました。私たちは、止められない習慣に縛られ、対応できない恐れに囲まれ、償えない結果に捕まえられていませんか。しかし、キリストご自身が「失われた者も捜して救うために来たのです」と言われ、罪人の友になられました。キリストは罪人を愛して救うために十字架で死なれました。
「福音は救いをもたらす力」
私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)
救いということばは非常に強いことばですが、キリストご自身が「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです」と明言されました。またキリスト誕生にあたって、主の使いがヨセフに「その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」と告げました。聖書が示す福音は、人は助けが必要であるとは言っておらず、人は救われる必要があると言っています。福音、すなわちキリストの十字架と復活による救いは、信じるすべての人に罪の赦しと永遠のいのちを得させ生涯を変貌させます。
「岩の上か砂の上の人生」
ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に家を建てた賢い人にたとえることができます。(マタイ7:24)
これは二種類の土台のたとえで、二つの家の外観も、家を襲った自然災害も全く同じです。しかし災害の結果は、一方は毅然と建ち他方は酷い倒れ方でした。一方は岩を土台とし他方は砂地に建てられたからです。この家とは私たちの人生また永遠を指し、嵐は苦難です。岩とは、みことばであり、キリストご自身です。砂とは、この世の一時的で過ぎゆくものすべてです。これは、みことばを聞いて行う人とみことばを聞いて行わない人の違いを示し、キリストは前者を賢い人と呼び、みことばに聞き従う人生の確かさを語られました。
「健全な救いへの第一歩」
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(マルコ2:5)
人が触れて欲しくないことを、キリストは何度も口にされました。「子よ。あなたの罪は赦された」とはっきりと中風の男に言われました。それは、彼に正直であるべきことを決心させることばでした。キリストは、この男が抱えている問題が、彼をキリストのもとに連れてきた四人の友人が気づいているより遙かに深刻であると見抜かれました。キリストは彼の罪を指摘し「あなたの罪」と言われました。彼は自分の罪をごまかさず、正直に認めて罪の赦しを受け、健康も与えられたのです。私たちは、自分の罪に対して正直ですか。
「キリストに直ちに従う祝福」
「でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。(ルカ5:5,6)
キリストはご自身のみことばに直ちに従うことを求めておられます。ペテロは、網を直し終えるまで、また新しい網を持って来るまで待って下さるように頼むこともできたでしょう。しかし、キリストは、彼らが一晩中使った網がどんなに破れていても、まだ十分に洗っていなくても、その網を使って直ちに従うことを要求されました。神の恵みの御業は、直ちに従う者の破れた網で大いなることがなされます。人間的には、愚かで弱い者や、失敗だらけで見下されている者でも、キリストに直ちに従う者をキリストは用いられます。
「神のみことばに直ちに従う」
シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」(ルカ5:5)
キリストに全面的に信頼してこのみことばのように服従を実行するなら、私たちの人生は変えられ、生けるキリストとその御業を体験するものとなります。クリスチャン生活で、先ず実践すべきことの一つは、神のみこころに直ちに従うことです。ペテロのように「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした」と服従しない言い訳を探して自己流の信仰生活を続け、結実のないことを度々実感します。しかし、私たちが「おことばですので、してみましょう」とキリストに服従する時、豊かな結実の道に進みます。
「神への従順による神の働き」
こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。(使徒16:7)
神は戸を閉じられます。パウロは戸が閉じられたという神の導きに従いました。神は別の戸を開かれました。ある夜、パウロは、一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けて下さい」と懇願する幻を見ました。パウロはこの幻を見た時、直ちにマケドニアに渡ることにしました。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が召しておられるのだと確信したからです。私たちは、神のみことばに従っても従わなくても、大した問題ではないと思う人がいます。神の救いの働きは神への従順にかかっているのです。
「キリストの安息はプレゼント」
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11章28節)
キリストを救い主として信じて救われた人は、キリストのもとで安息を見出します。まだ救われていない人も、キリストのもとにさえ行くならば、キリストの安息が与えられます。キリストご自身が「わたしがあなたがたを休ませてあげます」と約束しておられるからです。キリストの安息はキリストからのプレゼントで、私たちが修養努力して獲得するものではなく、ただで戴けるものです。人生の苦しみや悲しみも、わがままな罪の後悔や死の恐れの重荷もキリストのもとに行くならば、キリストが重荷を降ろして下さいます。
「キリストを土台とする平安」
「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に家を建てた賢い人にたとえることができます。」(マタイ7:24)
主イエスは、二人の建築家と二軒の家のたとえを語られました。二人の建築家が設計し時間と費用と労力を費やして、それぞれ砂の上と岩の上に家を建てました。二軒とも外観は立派で少しも差があるようには見えません。しかし暴風雨が二つの家に打ち付けると、砂の上の家はひどく倒れ、岩の上の家は倒れませんでした。倒れるか、倒れないかは、その土台が原因でした。平安の土台を主イエスのみことばとその十字架による救いの上に置く時、どんな悲しみや試練や死に直面してもその人生は倒れず平安は決して揺るぎません。
「ひとり子をも与える神の愛」
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
「ひとり子」とはキリストのことです。キリストは神の御子でしたが、私たちを救うために人となってこの世に来られ、人の悲しみや苦しみを味わい、人の罪をすべてご自分の罪として身に負い、身代わりに十字架につけられ死んで下さいました。キリストとは「救い主」という意味です。キリストの十字架によって人の罪はみな赦され、正しいものとされ、生まれ変わり、永遠のいのちを持つことができるのです。どんなに罪深く、不信仰でわがままでも、この神の愛を受け入れる時に救われ、新しい人に変わることができます。
「王の王イエス・キリストの誕生」
ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。(マタイ2:2)
御子イエス様は創造主で「万物は御子によって造られ、御子のために造られました。」御子イエス様は「神の御姿であられるのに、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」御子イエス様は「十字架の上で、私たちの罪のために死なれ」ました。御子イエス様は「三日目によみがえられ、天に上り、神の右におられます。」御子イエス様は永遠の王で「神は、すべの名の上に置かれました。」ですから、理由も解決も見つからない大試練の中で、クリスチャンは「なぜ、どうして」と言わず、神の支配を信じて平安です。
「神に不可能はないと信じるマリア」
見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。神にとって不可能なことは何もありません。(ルカ1:36,37)
マリアは具体的な犠牲が要求される時に従いました。聖霊によって身ごもるという、歴史上唯一の特殊な出産であり、当時のユダヤでは社会的に私生児と見なされ、ヨセフを裏切ったマリアと生涯陰口を言われることも想像できる中で、彼女は神のみこころを受け入れました。神の証人による励ましを知ったからです。高齢で身ごもり、先に神のみことばが実現するのを体験したエリサベツの存在です。神に不可能なことは何もない、と神のみことばによる確信を与えられたからです。神のみことばは神の全能により必ず実現します。
「神のみこころに従ったマリア」
マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。(ルカ1:30,31)
マリアが救い主の母に選ばれた理由の中で、神のみこころに従ったことは重要な点です。マリアは神のみことばを聞いた時に従いました。「ただ聞くだけの者となってはいけません」と聖書は教えます。神のみこころが示された時、彼女は従うことを逃げたり延ばしたりしませんでした。マリアは困難が予想される時に従いました。マリアは受胎告知で神の計画を十分には理解できず、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」と答えました。すべてが分かったから従うのでなく、神のみことばだと分かったので従ったのです。
「神の祝福を受ける栄光の場」
その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32:28)
「ヤコブ」は「押しのける者」でしたが、「イスラエル」という名は「神の王子」という意味です。この時ヤコブは神から新しい性質を与えられただけではなく、神から新しい力を受けました。ヤコブに告げられた「勝利者」になるとは、必ずしも世の人々の前に成功者となることではなく、神の御前に力ある者になることです。その置かれている場所で、神のみこころをキリストの愛の力で実行する時、勝利の人生が始まります。ヤコブは「私は顔と顔を合わせて神を見た」と言い、私たちはキリストにより神ご自身を知るのです。
「神の祝福を受ける屈服の場」
その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。(創世記32:25)
神はヤコブを祝福する前に、彼のももの関節を打たれました。神がヤコブを罪から解放し祝福しようとされるのに、神を第一にできず必死で抵抗していたからです。ヤコブは抵抗を止めて、神にすがりつきました。彼の傲慢は砕かれ、自分の敗北を認めたのです。「あなたの名は何というのか」と神に聞かれ、彼は「ヤコブです」と答えました。ヤコブとは押しのける者の意で、兄や父や伯父を欺いた過去の姿を認め、自分の罪深さを告白しました。ヤコブは本当の自分に向き合い、神に降伏し、神に信頼し、神の祝福を求めました。
「キリストを愛する愛の働き」
マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。(ヨハネ12:3)
ユダヤの指導者たちがキリストを殺そうとしていた時、マリアはキリストを愛して「非常に高価な」ものを献げました。愛は払うべき犠牲でも、与える時間や力でも惜しむことをしません。愛はどれだけ費やしても無駄だとは思いません。愛は可能な限り相手の必要に応えようとします。また「家は香油の香りでいっぱいになった」とあり、愛には魅力的で広がる香りがあります。キリストが私たちを救うために注がれた愛ほど香り高いものはありませんが、キリストの愛を知りキリストを愛する人生も家を最高の香りで満たします。
「迫害の中で前進する教会」
主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。(使徒5:14)
使徒たちに手をかけて捕らえ、彼らを公の留置場に入れた。(使徒5:18)
誕生した初代教会は成長しましたが、ユダヤ教の指導者たちに妬まれ、留置場に入れられ、宣教を叱責され、殺意を持たれました。しかし使徒たちは「人に従うより、神に従うべきです」と宣教を続ける決意を表明しました。真の神が、罪人である自分を愛し救うために、キリストの十字架と復活という驚くべき御業をして下さったことを信じる時、愛こそが人生の動因となります。使徒たちは鞭で打たれ、宣教を禁止されましたが、その苦しみを喜びました。それが苦しみを受けたキリストに従い、キリストに似る印だからです。
「クリスチャンの受け継ぐ資産」
朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。(ペテロ第一1:4)
これは、御国で与えられることを確実に期待できる資産が、今すでに確かに与えられていることを述べています。第一に、朽ちることもない資産で、死も届かず死さえも私たちの希望を取り去ることはできません。第二に、汚れることもない資産で、罪に汚され奪われることもない私たちの喜びです。第三に、消えて行くこともない資産で、突然状況が一変し期待が裏切られても決して変わらない喜びです。第四に、天に蓄えられている資産で、神ご自身のみことばの約束に立つ希望です。人生の暗黒でもこの希望のゆえに喜びます。
「神の前に義とされる信仰」
義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです(ルカ18:14)
パリサイ人と取税人が神の前に祈りました。パリサイ人は教養も地位もあり宗教儀式に厳格でした。取税人は周囲から汚れた者、罪人と嫌われ軽蔑されていました。パリサイ人は自分の行為を誇り他人と比べて、「この取税人のようでないことを感謝します」と祈りました。取税人は「罪人の私」と悔い改め、何も誇ることがなく赦されない罪人だと認め、「神様、あわれんでください」とただ神のあわれみにすがりました。神は、自分の行為で義とされると確信したパリサイ人でなく、ただ神を信じた取税人を義と認められました。
「神の義を受け入れる信仰」
働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。(ローマ4:5)
このみことばは、「行い」によって義と認められようとする人と、「信仰」によって神の義を受け入れる人との違いを教えています。救いを行いの報酬であると考える人と、救いを神からの無代価の賜物と考える人です。キリストは十字架上で「完了した」と言われました。私たちが救われ神の義とされるために、キリストがすべて成し遂げられたのです。私たちにできることは何もありません。キリストが十字架上で成し遂げて下さった救いをただ信じて受け入れるだけです。行いでは体験できない救いの確信をだれでも持てます。
「三本の十字架の事実」
「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。(ルカ23:33)
三本の十字架が立てられ三人がかけられました。中央の十字架は罪を赦すための十字架です。キリストは私たちの罪をすべて負い、私たちの代わりにいのちを捨てられました。片方の十字架は罪を悔い改めた十字架です。キリストが十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのか分からないのです」と言われたのを聞き、犯罪人の一人は自分の罪を悔い改めて救われました。残りの十字架は罪の赦しがない十字架です。この犯罪人は神の愛に心を開きませんでした。あなたはどの十字架の側にいますか。
「新しい人生への方向転換」
ザアカイは主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」(ルカ19:8)
ザアカイは人々から罪人と罵られる取税人になり、その権利を悪用して脅し取った物で金持ちになり、かしらの地位まで昇り詰めました。人々は彼にへつらい心の中では深く憎み軽蔑し、彼もそれを知っていました。彼は一人も友達がいない孤独な人でしたが、長い間の生き方を変えられずにいたのです。しかしキリストに「今日、あなたの家に泊まることにしているから」と言われ、キリストを心に迎え入れました。キリストの愛による赦しを知り、彼は自ら「脅し取った物は四倍にして返します」と宣言し全く変えられたのです。
「罪の深さと愛の大きさを知る人」
この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。(ルカ7:47)
この女性の罪深さは本人も認め、周囲の人にも知られていました。しかし、罪深い者を受け入れ罪を赦して下さるキリストの愛を知りました。彼女は罪を赦された喜びで涙が溢れ、キリストの足を涙で洗い、自分の髪で拭い、何度も足に口づけし、その足に香油を塗ったのです。彼女の行為はキリストへの感謝を表すだけでなく、多くの罪を赦して下さったキリストへの溢れる愛でした。自分の罪深さを知り、赦して下さるキリストの愛の大きさを知った人は、キリストを多く愛し、キリストの愛を実践して生きることができます。
「みことばの権威を確信する」
私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばをください。そうして私のしもべを癒してください。(ルカ7:7)
百人隊長は自分の職業から権威がどのようなものかを学んでいました。百人隊長が部下の一人に、「行け」と言えばその部下は行き、別の部下に「来い」と言えばその部下は来ます。百人隊長の後ろには、ローマ帝国という当時世界最大の権威があったからです。百人隊長は、キリストがみことばによって病人を癒されるなどの出来事を見たり聞いたりして、「キリストのみことばの背後には、ローマ帝国よりも偉大な権威がある。だからキリストのみことばには権威があり、キリストのみことばは必ず実現する」と確信しました。
「恐れないで、ただ信じていなさい」
「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」イエスは会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」(マルコ5:35,36)
会堂司の娘は死にかけていました。懸命に手を尽くしましたが命が危なくなり、彼は自分の地位も名誉もかなぐり捨てて、キリストの足元にひれ伏して懇願しました。ところがキリストと一緒に家に向かう途中で、娘が死んだとの連絡を受けました。「娘はキリストの力できっと治る」と堅く信じていた彼の心は、絶望的な悲しみに襲われ折れそうになりました。その彼の心を「ただ信じていなさい」と一言でキリストは立て直され、娘を死からよみがえらせられたのです。不安と絶望の中でもキリストにより生きることができます。
「キリストに触れたのは誰」
彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。「わたしにさわったのは、だれですか。」(ルカ8:44,45)
12年間病気で、多くの医者に財産すべてを使い果たしたのに誰にも治してもらえず、もっと悪くなった女性がいました。彼女はキリストのことを聞き、群衆とともに来て、うしろからキリストの衣に触れ、すぐに病気が癒されました。彼女はすべての望みが絶たれてキリストに触れました。病気は絶望的で最後の望みでキリストに触れたのです。彼女が求めたのは同情ではなく癒しであり解決です。そのために彼女は手を伸ばしキリストに触れたのです。彼女はキリストを信じて触れ、キリストのいのちが彼女を癒し救ったのです。
「九人はどこにいるのか」
十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。(ルカ17:17,18)
隔離されて生活していた十人の病人が、キリストに近づくのを遠慮して遠くから大声で叫びました。必死でキリストにあわれみを求めました。キリストに「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」と言われ、彼らは行く途中でみな癒されました。癒された十人のうち一人だけが、キリストのところに戻って足元にひれ伏して感謝しました。戻らなかった九人は治りさえすれば良かったのです。感謝しに戻った者にキリストは「あなたの信仰があなたを救った」と信仰による救いを明言され、キリストにつながる者となったのです。
「キリストとの出会いを確信する救い」
「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。」イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(ヨハネ4:25,26)
サマリアの井戸に水を汲みに来た女性に、キリストはご自分が救い主であることを明らかにされました。この女性は愛を求めて幾度も傷つき、人目を避けていました。彼女の人生は社会的にも道徳的にも霊的にも人々が蔑むようなものでした。しかしキリストは彼女を見下すことなく、生ける水という神の救いについて語られました。生ける水を私に下さいと求めた女性に、キリストは彼女の罪を指摘し救おうとされました。キリストの救いは、自分の一番の罪深さをも認めキリストを信じる者を新しくし、キリストに出会わせます。
「心が渇く者への生ける水」
この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。(ヨハネ4:13,14)
聖書のみことばは神の約束です。みことばに信頼する者はその人生が変わり、いつまでも決して渇かない生ける水の泉を持つようになります。地位も名誉も財産も健康を手に入れても必ず手放すことになりますが、決して涸れない泉を持つのがクリスチャン生涯です。心の中に決して涸れない生ける水の泉を持たない人も今日から持つことができます。家族を愛せない赦せないことは現実です。わがままな罪が自分も他人も傷つけますが、自分では解決できません。事実、キリストは生ける水を求める人に誰にでも与えて下さいます。
「あなたの王キリスト」
「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:42,43)
十字架で処刑されたこの犯罪人は、十字架上のキリストが御国の王座に向かっておられる王であると認め信仰告白をしました。キリストをあなたの人生の王とされましたか。天の王座を占めるキリストこそ、私たちの心の王座に迎えられるべき王の王です。しかし私たちの心と生活には、キリストに王座を明け渡すための戦いが続きます。何年間でもこの戦いが続く限り平安は訪れません。今日、「わたしの願いではなく、みこころがなりますように」と明け渡し、みことばに従うならば、キリストの平安が心を支配し溢れてきます。
「御霊と真理による真の礼拝」
「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)
キリストに指摘され自分の罪を自覚したサマリア人の女性は、サマリア人の礼拝とユダヤ人の礼拝のどちらが神の前に正しいのか、真剣に質問しました。キリストは「まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です」と答えました。御霊によって新しく生まれ神の子とされた者たちは、御霊によってキリストを正しく理解して礼拝します。またキリストによる救い受け入れて罪を赦されたクリスチャンは、真実で正しい神との関係を持って礼拝します。キリストへの理解と従順こそが必要です。
「リアルなキリスト経験」
「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。(ヨハネ4:9)
サマリア人の女性はキリストに出会って社会的な闇が除かれました。ユダヤ人はサマリア人を見下しユダヤ人の男性がサマリア人の女性に話しかけることは普通ないのに、キリストには差別の壁がありませんでした。次にキリストは彼女の家族的な闇を除かれました。初対面なのにキリストは彼女に家族との問題の黒歴史を指摘し、彼女は素直に認めました。更にキリストは彼女の信仰的な闇を除かれました。礼拝をしても神の救いを確信できない彼女に、キリストは「わたしが救い主だ」と言い、彼女は救いの喜びに溢れました。
「嫌われ者を招くキリスト」
医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ5:31,32)
当時ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人から多額に税金を取り立て、その一部を自分のものにしていた取税人は人々に大変嫌われていました。取税人マタイもお金持ちでしたが、街中の嫌われ者で誰からも相手にされず友達もいませんでした。そのマタイの目の前にキリストが来て「わたしについて来なさい」と言われ、心が飢え渇いていたマタイは、すぐにイエスに従いました。マタイは本当に嬉しくて他の取税人たちを招いて大宴会を開き、キリストとその救いを伝えました。キリストは救いを求めている「罪人の友」です。
「人々をキリストに向かせる聖霊」
このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。(使徒2:36)
聖霊に満たされたペテロは、イエスがキリストである証拠を人々に示しました。イエスの力ある奇跡は人々が見た事実で「あなたがた自身がご承知のこと」と語りました。イエスが十字架につけられたのも「神が定めた計画」で救いを与える神の道であると述べました。しかし「神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました」「私たちはみな、そのことの証人です」と証言しました。「神がキリストとされたイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」キリストの十字架に向き合う時こそ救いを得る時です。
「聖書からキリストを語らせる聖霊」
「皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」
「ダビデは、この方(キリスト)について次のように言っています。」(使徒2:4,25)
聖霊に満たされる以前のペテロや弟子たちは、キリストご自身に対する神のご目的を間違って捉えていました。キリストが霊的御国ではなく政治的王国を再興して下さると誤解していました。しかし、聖霊に満たされたペテロの理解は正しいものと変えられました。神のみこころを理解する力、神の真理を知る力が与えられたからです。「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます」とキリストが約束された通りです。聖霊は聖書からみこころを示し、キリストを語らせて下さるのです。
「大胆にキリストを語らせる聖霊」
「皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」「ペテロは立って、声を張り上げ、人々に語りかけた」(使徒2:4,14)
キリストが捕まえられ弟子たちは恐れに震えていましたが、聖霊に満たされ、もう逃げも隠れもせず立ち上がりました。時代や人々や環境がどうであれ、世の力に流され傷つき、世の欲に支配されている人々の中で、キリストの愛を伝えるためにクリスチャンは立ち上がらなければなりません。ペテロは声を張り上げ、人々にはっきりと聞こえる声で力強く語りました。その声には、神よりの権威の響きがありました。キリストを拒否したペテロが、人を恐れずに大胆にキリストの救いを語ることができたのは聖霊の力によるのです。
「聖霊によるクリスチャンの変貌」
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」「すると皆が聖霊に満たされ」(使徒1:8、2:4)
キリストは十字架につけられる前夜に聖霊が来られることを語られ、昇天前に聖霊が降ることを待つように言われました。その聖霊が降り、弟子たちは聖霊に満たされたのです。キリストは「世にあっては苦難があります。しかし、わたしはすでに世に勝ちました」と言われましたが、弟子たちはこの世と世の欲に支配され、キリストを裏切りました。キリストを信じながら敗北の信仰生活をしていませんか。信仰に挫折した弟子たちは、約束された聖霊に満たされ、世にあってキリストの愛による圧倒的な勝利者と変えられました。
「天から降られた聖霊」
天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。(使徒2:2~4)
その日、弟子たちはエルサレムの町のある家に集まって祈っていました。そこに聖霊が天から降られたのです。これは、聖霊を受け、聖霊に満たされた者の性質が天的なものとなるためです。弟子たちは三年半もキリストに仕えましたが、その性質は肉的で世的なものでした。ユダは金銭欲に、ヨハネとヤコブは名誉欲にとらわれ、ペテロは人を恐れる者でした。しかし、この聖霊は弟子たちを天的性質を持つ者へと変貌させたのです。私たちはこの世に生きていますが、聖霊に満たされキリストのものとされ神の愛に満たされます。
「キリストによって赦し愛せる」
「だれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:36,37)
キリストは「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」を実行するよう聖書の専門家に言われました。聖書を実行すべき人なのに自己流に理解し実行していなかったからです。キリストは、愛の知識ではなく敵に対しても愛の実践を求められます。私たちは敵への愛の実践のために自分のすべてを用いることはできません。キリストは「父よ、彼らをお赦しください」とご自分を十字架につけた者のためにいのちを捨てて祈られました。キリストを心に受け入れる時、私たちはキリストの愛により敵をも愛することができます。
「絶望的な者を見捨てない愛」
強盗たちはその人を殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。(ルカ10:30.31)
強盗に襲われた人は半殺しにされ自分では立ち上がれない状況に置かれましたが、その場所に来た祭司は「反対側を通り過ぎて」助けてくれませんでした。自分だけでは解決できず助けて欲しい時に誰も助けてくれない絶望的な状況に置かれることがあります。自分都合や自己義を優先して、「反対側を通り過ぎて」悪いと思いながら見て見ぬ振りをする祭司のようなことがありませんか。傷つき絶望的な状況の人の苦しみに気づき向き合ったことがありますか。キリストの愛は絶望的な状況でも決して変わらず一人も見捨てません。
「隣人を愛せない人の救い」
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」「それを実行しなさい。」しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。(ルカ10:27~29)
神は、私たちが愛し合うことを命じておられます。それが私たちに必要であり、可能だからです。しかし愛し合うことができない者は言い訳をし、人のせいにします。キリストは聖書の専門家に「それを実行しなさい」と言われましたが、言葉や口先だけで、自分都合で愛する人がいます。私たちの愛するは制限付き、条件付きです。人は、自分の力で心底愛し合うことは絶望的にできません。愛せないであなたが苦しむ時、周囲の方も苦しみ傷ついています。キリストは限界のない愛を注ぎ、私たちを愛する者に変えて下さいます。
「救いのための真の悔い改め」
ペテロは、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存知です。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」(ヨハネ21:17)
神は、私たちが心から悔い改めるなら、すべての罪を赦し、神とともにある新しい人生に変えて下さいます。ところが、私たちは真の悔い改めではなく、 後になってすまないことをしたと悔いる後悔、または自分の犯した罪を人に告白する懺悔をします。あるいは二度としない、これからはやり直しますと決心します。キリストを裏切り、自分の愛は偽りのものだ、自分の信仰は全く間違っていたと認めたペテロは、一切言い訳をせず、キリストに全く委ねました。自分中心から神中心へ、我欲から神の愛へ心の方向転換をしました。
「裏切り者さえ愛する愛」
イエスは三度目もペテロに「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。(ヨハネ21:17)
復活されたキリストは、ティベリヤ湖畔で七人の弟子たちと朝食を共にされ、その直後、ペテロにキリストの変わらない愛を示されました。かつてペテロは、キリストに「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と告白しました。しかし、キリストの捕縛、死刑判決、十字架刑に直面し、彼はキリストを三度否定し裏切りました。キリストは、ペテロに対して怒り、恨み、憎しみではなく、「あなたはわたしを愛していますか」と永遠の愛、真実の愛を尽くし、愛の応答を求められました。
「神の栄光を現す信仰生活」
平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。(ヨハネ20:21)
キリストは、神がキリストを遣わされたように、弟子たちすなわち神を信じ神の愛と救いを知った人々を遣わすと言われました。その遣わす目的もキリストと同じです。キリストの地上での生涯の目的は、父なる神のみこころを行い、父なる神のご栄光を現すためでした。ゲッセマネでは「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」と祈られ、神のみこころを最優先されました。また「キリストは、自らを低くして、十字架の死にまで従われました。」私たちも神の栄光を現すために生きるのです。
「主のために受けた傷跡」
イエスが来て、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。(ヨハネ20:19,20)
復活のキリストはその手と脇腹の傷跡をお見せになるために、弟子たちが恐れて隠れていたところに来られました。キリストは私たちの栄冠や名声には関心がなく、逆にキリストのために受けた傷跡には深い関心を向けられます。聖書は「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」と語ります。終わりの日に今度は私たちがキリストのために受けた傷跡を見せるようにキリストから求められます。
「復活の主による最初の訪問」
イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。(ヨハネ20:16)
復活されたキリストは、総督ピラトや大祭司カヤパなどの世の権力者にご自分を現すことをせず、むしろ彼らは無きに等しい者であるかのように何の関心も払われませんでした。その代わりに、復活のキリストが最初に訪れたのは、かつて七つの悪霊からキリストに救ってもらったマグダラのマリアでした。キリストを愛しキリストの墓の前で泣いていた彼女に、キリストは「マリア」と個人的に呼びかけられました。希望をなくした悲しみの人をキリストは決して忘れず、喜びの人に変えて世界にキリストを伝える者とされました。
「復活されたキリストの平安」
弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20:19)
十字架の直前、「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません」とキリストは約束されました。しかし、心を騒がすなと言われても、キリストが釘打たれ十字架上で死んで、墓に納められたのですから無理なことです。ところが、キリストの平安は、すべての罪が赦されて、永遠のいのちを与えられたと確信できる神との平和です。また何物によっても奪われことも揺るがされることもない神ご自身の平安なのです。
「あなたの王キリストを見よ」
イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」(ヨハネ19:5,14)
十字架上で、悔い改めた強盗が血まみれで死に瀕している神の御子に、「イエス様。あなたが御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と祈りました。十字架の下では、人々の憎しみ、嘲り、罵りが渦巻き、弟子たちもキリストを裏切り見捨ててしまいました。突然、死に直面した強盗は、このキリストは犯罪人としての死に向かっている人ではなく、王としての位に向かって進んでいることに気が付いたのです。キリストを王として心に迎える時、状況は全く変わらなくても、キリストの希望と平安が溢れます。
「キリストへの決断を恐れる」
ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」(マタイ27:22)
ピラトは、キリストに対して正しいことを決断し行うことを恐れていました。彼はキリストに面と向かって会わなければならず、その時が確かに来たのです。彼はそのことを他の人に決断させようとしましたが、キリストから逃れられませんでした。ピラトは人々の脅かしを恐れていました。彼は人々が妬みからキリストを死刑にしようと連れて来たことを知っていました。人々は、もしピラトが彼らの望み通りに実行しなかったら、問題を起こすと脅かしていたのです。ピラトは間違った決断をしその行為を正当化しようとしました。
「神の前に砕かれたキリスト」
父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。(ルカ22:42)
キリストの心はゲッセマネの園で打ち砕かれ、キリストは苦悩の中で祈られました。「わたしの願いではなく、みこころがなりますように」。キリストの体は十字架の上で打ち砕かれ、御手と御足には釘が打ち込まれました。キリストと父なる神との交わりは死の瞬間に打ち砕かれ、苦悩の中で叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。キリストは私たちのために罪あるものとなられ、私たちの傲慢さや砕かれない自我をご自分で引き受け、私たちの代わりに十字架で砕かれて下さいました。
「信仰による戦いは祈りで決まる」
主はヨシュアに告げられた。「見よ、わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した。」(ヨシュア6:2)
ヨシュアがお祈りをしている時、主の軍の将、キリストに出会いました。キリストを信じる信仰による戦いは祈りによって戦われます。祈る時に神の助けが与えられ、神のみこころを知ることができます。信仰による戦いの一番の武器は祈りです。キリストを信じる信仰による戦いの第一歩は「あなたの手に渡した」というみことばの約束を握ることです。聖書の約束を握って、神の前にひれ伏してみこころを求めて祈るのが信仰による戦いです。みことばの約束を確信し、心から従います、と決心するのが信仰による勝利への祈りです。
「キリストによる勝利の保証」
主はヨシュアに告げられた。「見よ、わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した。」(ヨシュア6:2)
キリストとの出会いは私たちに勝利の保証を与えます。ヨシュアがキリストの支配に自分自身を全面的に委ね、キリストに服従した後、初めてキリストはエリコについて語られました。キリストがエリコに対して持っておられる計画を、ヨシュアはついに知るのです。それは他でもなく「勝利」です。ヨシュアにとっては大問題のエリコでも、キリストは全く問題にしておられません。キリストはヨシュアに「あなたの手に渡した」との勝利の保証を告げられました。キリストとの真の出会いこそが信仰の勝利を確信させる秘訣です。
「キリストによる人生の再調整」
主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。(ヨシュア5:15)
主の軍の将、キリストとの出会いによって、ヨシュアは人生の再調整を求められました。ヨシュアは地面に顔をつけて、「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか」と尋ねましたが、キリストの関心はエリコに対する戦略ではなくヨシュア自身に対してでした。約3キロ先に敵がいても、キリストは「あなたの足の履き物を脱げ」と言われ、ヨシュアが神第一を徹底して従うことを命じられました。「そこで、ヨシュアはそのようにした」とあるように、ヨシュアは直ちにキリストの支配に自分自身を全面的に委ねました。
「キリストによる困難の再評価」
ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。(ヨシュア5:13)
ヨシュア記のテーマは信仰による戦いです。エリコでの戦いは、約束の地カナン入国後の初めての戦いでイスラエルの存亡がかかる戦いです。ヨシュアは自分の前の問題を把握するためにエリコを偵察しに行きましたが、キリストに出会いひれ伏しました。一番の問題は堅固なエリコの城壁で、前進と勝利の障害になっていました。私たちも必ず大きな困難に直面します。ヨシュアはキリストとの出会いにより、この戦いの一番の問題はエリコではなく、勝利を約束して下さるキリストとの関係であることを知る必要があったのです。
「キリストこそ私の真の隣人」
あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(ルカ10:27)
良いサマリア人のたとえは、自分は真の隣人にはなれないと気づかせるためのようです。キリスト以外にはだれも、真の隣人にはなれません。このみことばを、キリストの語られたような規準で守ることは、生まれつきの性質の人間にはできません。永遠のいのちを自分のものにすることも、自分の努力や行いによって得られるものではありません。キリストの十字架によって罪を赦され、新しく生まれ変わった時、初めて可能になることです。神は私たちのために、ひとり子をさえ惜しまずに死に渡されました。その神の愛を知り、キリストを心に受け入れる時、私たちは同じ愛を人々に分け与えることができるのです。
「隣人をみことば通りに愛する」
彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)
この良いサマリア人のたとえは、良い行いをするとか親切な人になるなど博愛慈善の教えでは決してありません。「自分が正しいことを示そう」とする律法の専門家に対する反論として、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」を実行するようにとキリストが語られたものです。祭司はユダヤ教聖職者で率先してみことばを実行すべき人として登場しますが、実行できずにいる事実を示しています。キリストの十字架により神の愛を知り、キリストを心に受け入れる時、私たちは神の愛を人々に分け与えることができます。
「傷ついた人の隣人になる」
あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。(ルカ10:27、36)
キリストのことを「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」「あの人は罪人のところに行って客となられた」と人々は言いました。聖書の「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」を実行するように言われた人が、「私の隣人とはだれですか」と尋ねると、キリストは「傷ついた人の隣人になる」ようにと言われました。傷ついた人の隣人になるとは、他の誰もしない時にも、対立して面倒な人にも自ら進んで痛みに寄り添うことです。今必要なものも、更に必要なものも惜しみなく与えて寄り添うことです。
「隣人への愛による勇敢さ」
次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」(ルカ10:35)
サマリア人は、強盗に半殺しにされ道端に倒れている人を助けるために敢えて危険を冒しました。強盗により身の危険が伴うことも、ユダヤ人を助けることで同胞のサマリア人から嫌われ罵られることも恐れませんでした。聖書は、「愛には恐れがありません」「愛は神から出ているのです。神は愛だからです」と語っています。愛は自分自身のように他の人を思いやることで、報われなくても愛し続け、自分の敵のためにも犠牲を払うものです。十字架上のキリストはこの愛を示されました。今、神の愛が必要ではありませんか。
「隣人への愛による供与」
そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。(ルカ10:34)
強盗は他人のものを奪い取り、祭司は自分のものに固執しますが、サマリア人は自分のものを自分から進んで与え、傷ついた人と分かち合いました。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」聖書は、キリストの愛が分かった人生の行動基準を伝えます。キリストの愛が分かると、自分を人生の所有者ではなく管理者だと知り、自分のものを他の人のために喜んで用いる者に変えられます。
「隣人への愛による関心」
祭司が一人、その道を下ってきたが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。レビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。(ルカ10:31,32)
キリストは「大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒され」ました。「あわれむ」とは「苦しみを共にする」ということです。その苦しみに対して「私には何ができるだろうか、私がこの人の立場だったらどうだろうか」と思います。その逆が無関心で、無関心の代表者が神に仕えていた筈の祭司たちだとキリストは語られました。キリストを信じると、他の人の失敗や罪のための苦しみや悲しみや惨めさをより強く自分のことのように感じます。それは神の愛による関心を持つからです。
「あなたの隣人を愛する使命」
ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。(ルカ10:33)
日頃サマリア人を見下しているユダヤ人の一人が強盗に襲われ傷つき倒れているのを見て、このサマリア人は彼を隣人として親切を尽くしました。復活されたキリストは「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言われ、キリストの愛と救いを人々に伝えるために弟子たちを遣わされました。キリストが遣わされて来られたことは「私たちはこの方の栄光を見た」と記されています。聞いたのではなく「見た」のです。人々が私たちに期待しているのは愛について聞くことではなく「見る」ことです。
「あなたの隣人を愛しなさい」
あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(ルカ10:27)
ここに、隣人に対する義務が教えられています。それは「愛する」ということです。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。」聖書は、「愛」はキリストを信じて与えられた新しいいのちのしるしであり、「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」「愛」がキリストの弟子である証拠であると語っています。「もっとも問題なのは、罪を認めようとしない罪である」と言われます。殺人、強盗はしないかも知れませんが、愛すべきその隣人に対して愛を怠っていることはないでしょうか。
「家畜小屋でのキリストの誕生」
ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。(ルカ2:6,7)
マリアもヨセフも救い主の誕生のために神に選ばれました。その二人が神のみことばに従ってたどり着いたのが家畜小屋でした。そこでキリストは生まれました。そこが神のみことばの成就した場所となりました。二人のこれまでの苦しみが吹き払われ救い主の誕生の喜びがそこを支配しました。私たちもキリストを信じて心に迎える時、キリストがいのちと愛をもって臨在され、そこがどのような場所、どのような状況でもキリストを知る喜びが支配します。自分の罪深さに絶望してもキリストによる罪の赦しの喜びが支配します。
「最初のクリスマスメッセージ」
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:10)
キリスト誕生は、当時の社会で最下層にあった貧しい羊飼いに最初に知らされました。羊飼いは一年中無休で羊の世話をしなければならず、安息日礼拝を定期的に守れないためユダヤでは軽蔑されていました。ローマ皇帝の命令により国中で行われた人口調査にも羊飼いは入れてもらえず無視された程です。全世界の歴史を左右するキリスト誕生は、社会的に嫌われ忘れられた人が選ばれ最初に知らされました。どんな劣等感、挫折感、孤独感を抱いた人でも、キリストはその人を見捨てずに愛し、救い解放するために来られました。
「THIS IS CHRISTMAS」
マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカ2:6,7)
ローマ皇帝による住民登録でナザレからベツレヘムに着いたマリアとヨセフは宿を探しますが、住民登録のため宿はどこも満室で二人が泊まれたのは家畜小屋でした。牛や羊の糞の匂いがする家畜小屋でキリストは生まれ、飼葉桶がベッドでした。待ちに待った救い主が来られたのにキリストをお迎えする人は一人もいませんでした。どんなに楽しく賑やかでもキリスト抜きのクリスマスは本人抜きのお誕生会と同じです。わがままな罪を悔い改め、キリストを救い主と信じて心にお迎えするクリスマスこそ、本当のクリスマスです。
「力あるクリスチャンへの招き」
病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。38年も病気にかかっている人がいた。「良くなりたいか。」(ヨハネ5:3)
病人は力なき人々、身体に麻痺のある人々は成長しなかった人々とも訳されます。クリスチャンなのに無力な方々がいます。キリストの十字架による赦しの経験はあっても聖霊の力による勝利の経験がありません。善悪は判断しますが正しいことを行う力がありません。神の御意が理解できず、キリストに従う歩みができません。クリスチャンとして成長せず結実もありません。キリストの十字架の血潮は罪を赦すだけでなく罪の根さえもきよめ、聖霊の力は何年も続く敗北からでも愛による圧倒的勝利の信仰生活に必ず変えます。
「キリストのもとに来なさい」
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。(ペテロ第一2:4)
教会が人をキリストに導き、教会の会員になることで人はクリスチャンになるのではありません。私たちは、先ずキリストのもとに来ることによってクリスチャンとなり、教会に繋がる者となるのです。キリストもとに来るとは、自分がキリストを必要としていることを認めることであり、自分の必要がキリストによって満たされることを信じることです。キリストの十字架の贖罪を信じることであり、復活のキリストのいのちを経験することです。教会に加わるためには、みな先ずキリストご自身のもとに行かなければなりません。
「あきらめている人への救い」
イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしているのを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」(ヨハネ5:6)
この人は38年間も病気で悩み苦しみ、かつては一日でも早く癒されて生きがいのある人生を歩みたいと思っていました。しかし病気は治らず彼はもうあきらめかけて、今は自分の弱った肉体を利用して物乞いをしていたかも知れません。キリストは彼に「良くなりたいか」と言われましたが、「本当に治りたい」と素直に言えませんでした。けれどもキリストに質問され、物乞いをする自分の惨めな本当の姿に気づきました。キリストはあなたの心を全て知り、長い間あきらめていても、キリストのみことばを信じる者を救われます。
「貧しい者が与える者に」
さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うことにしている。(列王第一17:9)
神がエリヤに約束して下さったやもめに出会うと、わずかに残っている食物を食べて息子と一緒に死のうとしていました。エリヤは彼女を「恐れてはいけない」と励まし、神のみことばを伝えました。その結果、神は餓死直前の異教徒のやもめに神に従う信仰をお与えになり、その彼女の信仰によって、エリヤと共に彼女とその息子を長い間養って下さいました。この世で嫌われている者や貧しい者を、神は私たちを養う者として備えられます。キリストは生きておられるのです。思い込みに捕らわれず、キリストを信じ従って下さい。
「見える者が盲目となる」
イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(ヨハネ9:39)
キリストはすべての人々を二つに分けるために来られました。キリストの光によって、光を得る人があり、盲目となる人がいます。キリストが語られる時に聞かなければ光ではなく暗闇を見ます。キリストは信じる者には光を与え、信じない者には暗闇を与えます。キリストは、自分は知っていると思う人に闇を与え、自分はまだ知らないと思う人に光を与えます。生まれつき盲目だった人は単純にキリストを信じ肉体的な視力と信仰的な洞察力が与えられましたが、パリサイ人は頑なにキリストを拒み霊的暗闇に入って行きました。
「信仰の成長へ導くキリスト」
彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。(ヨハネ9:38)
生まれつきの盲人でキリストによって目が開かれた人がユダヤのリーダー達に捨てられ、ユダヤの社会から追放されたことを聞き、キリストは彼を見つけ出し、「あなたは人の子を信じますか」「あなたと話しているのが、その人です」と言われました。キリストは、彼がひとりではなく、愛されていることを知って欲しいとご自身を現されました。キリストは迫害の中でも溢れる慰めと恵みを与えて、信仰の成長に導いて下さいます。彼は前には肉体の目を開かれ、今は信仰の目を開かれました。前には恵みを受け、今は恵みの与え主キリストに出会いました。神の恵みだけで満足するなら、神に会う礼拝はできません。
「キリストが見える救いの確信」
イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」(ヨハネ9:37)
生まれつきの盲人は、キリストに目を開けられたことを何度も非難されましたが、彼はキリストの救いを大胆に証言し、キリストご自身が彼の前に立たれました。キリストを信じたことは事実で教会生活も楽しく熱心でも、キリストが分からずキリストとの出会いや繋がりが曖昧な人がいます。キリストを信じる信仰は霊的な目を開き、キリストについて聞いて分かるからキリストを見て分かるに成長します。キリストを信じて非難されても、みことばに従い証詞する時、誰でもキリストとその愛が見えて救いの確信が与えられます。
「あなたの隣人を愛しなさい」
あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(ルカ10:27)
教会員でこのみことばを長年聞いていても、父母兄弟が嫌いで赦せないで愛することができない方が決して少なくありません。キリストは良いサマリア人のたとえ話で困っている人の隣人になることを語られました。隣人になるとは困っている人の気持ちに寄り添うことで、これは酷いと一緒に感じる人です。困っている人の必要のために自分の物を分かち合い、喜んで用います。困っている人を優先することを厭わないで、予定の変更や人々の偏見にも動じません。誰でもわがままな罪を悔い改めキリストの十字架を信じるならば、罪人を赦す神の愛を知り神を愛する者となり、キリストの愛が心に満ち溢れるからです。
「今見えるキリストの救い」
あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。(ヨハネ9:25)
生まれつきの盲人が、キリストによって目が開かれました。しかしキリストを神から遣わされた救い主と認めず、罪人だと言う人々は、生まれつきの盲人だった人が見えるようになったことを信じません。「どうして今は見えるのか」と盲人だった人を何度も責め立てました。彼は脅迫に屈しないで、「一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」と答えました。キリストの十字架を信じて罪を赦され、永遠のいのちを持つ確信は、迫害の中で増し加わり、真実な経験ですと証詞したくなります。
「愚かに見えるキリストの奇蹟」
「行ってシロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。(ヨハネ9:7)
キリストは、地面に唾をして泥を作り生まれつきの盲人の目に塗って、上記の御言を語られました。キリストは、目に触れなくてもただ一言で癒すことができる全能の御方なのに、汚く見えるような奇蹟をされました。十字架上のキリストも、顔も手も足も血まみれで、人が顔を背けるほど蔑まれ罵られ嘲られ、悲惨でした。しかし、キリストの十字架の血潮を信じる者は、すべての罪が赦され、永遠のいのちを持つことを確信します。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには、神の力です。」
「御子を信じる者はさばかれない」
御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。(ヨハネ3:18)
罪はさばかれ、罪には罰があります。自分の失敗、愚かしさ、心の汚さをみんなが知るようになった時の恥ずかしさを想像すると本当に惨めになります。死もさばきも事実で、それは必ず来ます。しかもさばきは将来のことではなく、信じない者はすでにさばかれています。そのさばきとは、悪を行う者がみな、光であるキリストよりも闇を愛し、光の方に来ないことです。彼らは嘘をつき、言い訳をして、罪を隠します。しかしキリストを信じる者はさばかれません。キリスト十字架によってさばきはすでになされ救われています。
「死から永遠のいのちに移る」
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5:24)
神のさばきを信じますか。罪を犯していないと思う人もいますが、聖書は罪を犯さなかった人は一人もいないと言っています。キリストが、肉体の死ですべてが終わるのではなく、死後に神のさばきがあると言われたのです。キリストは、すべての人が罪人なのに、ある人はさばかれないで死から永遠のいのちに移っているとも言われました。神は愛です。神は罪を憎んでも罪人を決して見捨てない御方です。キリストの十字架と復活により罪の赦しが成し遂げられ、キリストを信じたその時に死から永遠のいのちに移されます。
「神のわざが現れるための苦しみ」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(ヨハネ9:3)
神がおられ、神が愛であるなら、人生に苦しみが満ちているのは何故ですか。多くの人々が心の底に抱えている問いです。通りすがりに、キリストが生まれつき盲目の人をご覧になった時、弟子たちが尋ねました。「この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」弟子たちは、苦しみの原因を先祖や自分の罪への報いであると考えていました。しかしキリストは、苦しみは神の救いのわざが現れるためだ、と断言されました。苦しみは、神が支えて下さる恵みを体験する機会となります。
「神の子羊の血が救いのしるし」
その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。(出エジプト12:13)
神は世の人とクリスチャンとの間に区別を置かれます。神は公平な方で差別をなさらず、主の御名を呼び求める者はみな救われるのです。神の区別は、神が命じられた「子羊の血を鴨居と二本の門柱に塗り付ける」かしないかによります。出エジプト直前、神はエジプト全地を巡り、この血のもとにない家々にさばきを下されました。しかし、主なる神は、鴨居と二本の門柱にある血を見て、イスラエルの人々を過ぎ越され救われました。今も、神の子羊キリストの十字架の血が私の罪の身代わりためと信じる者はみな救われます。
「永遠のいのちの水が湧き出る」
わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。(ヨハネ4:14)
キリストは人の心の中で泉となって湧き出る永遠のいのちの水のことを語られましたが、サマリアの女には全くわかりませんでした。物質、金銭、肉欲の奴隷になっている者には、神の愛ときよさ、キリストの救いと永遠のいのちは理解できません。しかし、キリストは、5人も夫を換えて人々に軽蔑されていた彼女に、溢れ流れる永遠のいのちを与えるために来られました。キリストは「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と、彼女の心の最暗部に向き合い、キリストによる新しい人生への方向転換に招かれました。
「忘れられた人を救うキリスト」
一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。(ヨハネ4:7)
サマリアの女は、無名で貧しく見下され、5人も夫を換えて人々に軽蔑されていました。真っ昼間、彼女は人目を忍んで井戸に水を汲みに来て、キリストに出会いました。彼女とキリストの出会いは、どんなに堕落して見下されている人も、キリストから見放される人はいないことを示しています。当時、ユダヤ人とサマリア人とは付き合いをしませんでしたが、キリストはサマリアの女の素性を全て知りながらご自分から話しかけられました。一人の罪人も忘れずに救うためにキリストは十字架にかかり、先に愛を示されました。
「ほとんどクリスチャン」
イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」(マルコ12:34)
「遠くない」とはほとんど近くまで来ていても、まだ入っていないことです。この聖句は、キリストが聖書で一番重要な命令を語られたのを聞いた一人の律法学者が、キリストが教える信仰は儀式ではなく神との関係によるものだと理解していると伝えた時に、キリストが言われたものです。彼は神の国にほとんど入るところまで来ていますが、入る決断が出来ずにいます。あと一歩が踏み出せずほとんどクリスチャンという人が大勢います。自己中心を悔い改め、キリストを救い主として受け入れ従う人が真のクリスチャンです。
「あなたの家族も救われます」
看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。(使徒16:33)
剣を抜いて自殺しようとした看守が聞いた福音は「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」でした。彼はキリストを信じて死の罠、永遠の滅びから救われました。しかし約束の半分「家族も救われる」が残っています。看守は彼の家族全員も救われるようにと主のことばを聞かせました。看守は自分がつけたパウロ達の打ち傷を親切に洗い、人生を生まれ変わらせたキリストへの信仰を表明して家族全員で洗礼を受けました。看守はパウロ達と食事をし、キリストを信じたことを全家族で喜びました。
「人生の真夜中に輝く信仰」
真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。(使徒16:25)
迫害を受け奥の牢につながれ足かせをされたパウロ達は、真夜中頃、熱心にお祈りをし、讃美歌を歌い出しました。その讃美は牢獄中に響き渡り、他の囚人達は驚き聞き入っていました。人生には困難な問題が押し寄せて来ます。キリストを信じるために迫害にも遭います。しかしキリストの十字架と復活による救いの喜びは、牢につながれようが決して奪われることはありません。扉が閉まり「もう終わった」と思える時にも、信じる者に永遠のいのちを与えて下さるキリストが共にいて、平安と希望と愛が注がれ勝利があります。
「主イエスを信じなさい」
「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか。」「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)
これは、迫害を受け何度もむちで打たれ牢で足かせをされたパウロ達が、自殺目前の牢の看守の問いに答えて語ったものです。パウロ達が鎖につながれながら、神に祈り讃美をしていると大地震が起こり、牢の扉が全部開きすべての囚人の鎖が外れました。囚人達が逃げてしまったと思った看守は非常に慌てて自殺しようとしました。当時の法律では、囚人を逃がしたらその看守は囚人の代わりに刑罰を受けることになっていました。人生最低最悪の状況に追い詰められた苦悩の中でも、キリストを信じるだけでだれでも救われます。
「キリストの十字架は勝利の死」
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。(使徒2:24)
キリストの十字架は神の計画された死です。すべてが神の計画に従ってなされ、神ご自身が御子イエス・キリストを世に遣わし、キリストご自身が私たちの救いのために十字架でいのちを捨てられました。キリストの十字架は人間的には最低の死です。不当な裁判の末、最もきよく最も愛に満ちたキリストを、人々は最も苦しく最も惨めな刑罰の十字架につけて殺したのです。キリストの十字架は勝利者とされる死です。キリストの復活は、死をいのちに変え、敗北を勝利に変えました。キリストの十字架が私を勝利者に変えます。
「神のみことばが語られる説教」
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。(使徒2:37)
ペテロは聖霊に満たされて神のみことばを語り、それを聞いた人々は心を刺されました。神の真理は人の思いに揺さぶりをかけ、人の心と生活の隠れた問題を明るみに出します。キリストは私たちをさばくためではなく、私たちを救うために来たと語られました。大切なことは、神のみことばの真理に対して応答し行動しなければならないことです。人々は「私たちはどうしたらよいでしょうか」と救いを求めました。聖書は、神のみことばを聞くだけではなく、素直に受け入れ従うならば、キリストの救いを受けると語っています。
「最初の教会の出発点」
それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(使徒2:38)
聖霊に満たされたペテロの説教で、その日だけで三千人が洗礼を受けてクリスチャンになりました。彼の説教を聞いて人々は「心を刺され」ました。キリストを十字架につけて殺した罪を思い出し認めたのです。彼らは「私たちはどうしたらよいでしょうか」と叫び、ペテロは「悔い改めなさい」と答えました。悔い改めとはわがままな罪を捨て去る決心をすることです。キリストの教えに賛同するのが救いではなく、罪を認め、罪を神の前に悔い改め、キリストの十字架による救いを信じる者は皆、罪の赦しと救いを確信できます。
「聖霊に満たされる新しさ」
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。(ヨハネ16:13)
弟子たちは三年間キリストと寝食を共にして交わり、キリストが神の栄光を現されたのを直接見ました。しかし、聖霊に満たされた彼らは、それ以上のキリストを知る新しい知識が与えられました。彼らは自分たちがキリストについて殆ど知らなかったことに気づかされました。聖霊に満たされて、新しいキリストを見出した者のように変えられたのです。ある人は、知識の中で最高のものはキリストを知ることである、と言います。またある人は、私はキリストの栄光について今まで何という盲目であったことか、と言いました。
「みなが聖霊に満たされる」
炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。(使徒2:4)
クリスチャン人生に聖霊の満たしは最も重要なことです。キリストの十字架と復活のみが自分を罪から救うと信じてキリストを心に受け入れた人は、その罪が赦され永遠のいのちを持ちます。キリストを信じて従ったペテロなどの弟子たちですが、キリストを見捨てて従い続けることが出来なかった、敗北クリスチャンの実例です。しかし聖霊に満たされた弟子たちは変貌し、自己義や高慢や汚れからきよめられ、キリストの愛に迫られてキリストを人々に伝えるキリストの証人とされました。聖霊の満たしは信仰生涯に不可欠です。
「多く赦された人は多く愛する」
この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。(ルカ7:47)
彼女は罪深い女でしたが、自分の罪を嘆き、悲しんでいました。彼女にはキリストの前の悔い改めと信仰があり、キリストの足もとに来て、涙でキリストの足をぬらし自分の髪の毛でぬぐいました。また感謝と献身の思いに溢れて、キリストの足に口づけして香油を塗りました。キリストに罪を赦された人は、多く赦されたと知り多く愛する人になります。自分の罪深さを認める者を、キリストは決して裁かずに、すべて赦して下さるからです。
「キリストの赦しは、覆う愛」
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。(ペテロ第一4:8)
この聖句は、キリストを裏切ったペテロがキリストの愛に触れ記しています。聖書は「罪を覆われた人は幸い」と語り、赦すとは覆いカバーすることです。罪や過ちは、取り返しのつかない、醜い、汚れた傷跡を残します。赦さない心は、どうにもならない傷跡を暴き合っているのです。本当に赦すとは、ただ口先だけではなく、包み込み、カバーし、元どおりに直すことです。自分が、キリストによってどんなに多くの罪を赦されたかを知るとき、赦され、癒やされた心には、キリストから赦す心、愛する心が豊かに与えられます。
「キリストの赦しは、忘れる愛」
わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。(エレミヤ31:34)
聖書には「愛は寛容であり、人がした悪を心に留めず、愛は決して絶えることがありません」とあり、赦すとは人の過ちや罪を忘れてしまうことだと言います。神は罪を赦し、赦す時にそのすべての罪を忘れると断言されました。神が罪を赦す時、私の罪は海の深みに投げ入れられ、誰も拾い上げることはできません。私の罪は消し去られ、さばきの時に出て来る心配がありません。私の罪は神の記憶の中から取り去られ、思い起こされません。神に、私の罪を赦して忘れて戴く時、私も人の罪や過ちを赦し、忘れることが出来ます。
「キリストの赦しは、受け入れる愛」
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。(ルカ15:20)
赦すことは、人をありのままで認めて、愛をもって受け入れることだと聖書は語っています。父親に背き家を飛び出した息子は、父親の財産を湯水のように使い果たし、落ちぶれ惨めな姿に変わり果てました。ところが、その息子が父親の所に帰って来た時、父親は無条件で息子をあるがまま認めて受け入れました。息子が悔い改め謝ったので、父親が彼を赦したのではありません。息子が家を飛び出した時から、すでに父親は息子を赦し、帰って来る日を信じて待っていたのです。この父親が赦す神であり、息子が私たちなのです。
「神の愛と救いを伝える使命」
父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。(ヨハネ20:21)
よみがえられたキリストは、父なる神がキリストを遣わされたと同じように、弟子たちを新しい使命のために派遣されます。キリストはベツレヘムの家畜小屋に生まれ、悲しみの人となり人々に神の愛と救いを伝え見せて、十字架で死なれました。人々にののしられてもののしり返さず、私たちの罪をその身に負い救いの道を開かれました。キリストの十字架と復活による罪の赦しと永遠のいのちを体験した者は、口先でなくキリストの愛で人々の心に寄り添い、キリストの救いを伝える喜びの生涯こそ人生最高の使命とわかります。
「復活のキリストによる使命」
イエスは言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20:21)
キリストの弟子たちはキリストを裏切り、キリストを捨て、失望と恐れの中にいましたが、キリストは信仰の回復と新しい任命を与えると語られました。キリストは平和の君として私たちに平和と平安を与えるために、この世に来られて十字架で死に、よみがえられました。キリストの平安の土台は、キリストの十字架であり、復活はその保証です。わがままと不信仰の罪が赦され、罪から来る恐れがキリストの平安に変えられた者が、キリストの平和と平安を伝える者として遣わされ、争いの中でも平和をつくる者となるのです。
「復活のキリストによる喜び」
イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。(ヨハネ20:20)
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。(ヨハネ10:28)
復活されたキリストは、その手の釘のあと、脇腹の槍のあとを弟子たちに見せて、キリスト御自身であることを示されました。「弟子たちは主を見て喜んだ」のです。目の前のキリストは十字架上で死なれたキリストなのです。キリストのよみがえりは事実です。キリストの復活は、キリストの十字架の死が私たちを罪から救い出すことを証明し、キリストを信じ従う者は勝利の人生を送り永遠のいのちを持つことを証明したのです。復活されたキリストこそ私たちの喜びの泉です。キリスト以外に望みを置く喜びはすべて涸れます。
「復活のキリストによる平安」
弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来てこう言われた。「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20:19)
復活されたキリストが部屋に入って来られるまで、弟子たちはキリストを十字架につけたユダヤ人を恐れて隠れていました。復活のキリストは弟子たちに新しい平安を与えられました。キリストが捕らえられ、むちで打たれ、釘打たれ、十字架上で死に、墓に納められたのを見て、弟子たちの心は挫折、不安、恐怖に支配されていました。十字架につかれる前夜、キリストは「わたしの平安を与えます」と言われました。復活されたキリストは、人生の暴風雨、最暗黒、絶望にある者に、御自身の揺るがない平安を与えて下さいます。
「神の前の大いなる無力」
「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫び続けたが、エリヤはもう見えなかった。彼は自分の衣をつかみ、それを二つに引き裂いた。(列王記第二2:12)
エリヤの霊の二倍の分を受け、エリヤの外套を身に着ける前に、エリシャがしなければならないことがありました。自分の衣を二つに引き裂くことです。古き人という衣を脱ぎ捨て、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。私たちは自分の義の衣では神の前に立つことができず、キリストの義なる衣が不可欠な無力な罪人です。しかし、徹底的に罪を悔い改め、キリストの十字架を信じて神の義を受けることが出来ます。キリストは十字架上で無力に徹し、罪人の私たちの代わりに罪そのものになり、神に捨てられました。
「大いなる祝福の提供」
渡り終えると、エリヤはエリシャに言った。「あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」(列王記第二2:9)
「ここにとどまっていなさい」と言われても、「私は決してあなたから離れません」と従い続けたエリシャに対してエリヤは、「あなたの最もして欲しいことは何か。何を最も必要としているのか」と尋ねています。エリシャは切なる願いがあって、ここまでエリヤについて来たのです。求める者に、神は無制限に求めを述べるように言われることがあります。神は、その人の信仰の実質を自覚させるために、その願いの内容を問題にされます。神は私たちを救い祝福されますが、求めるものの焦点がズレたままで進んでいませんか。
「大いなる祝福を受ける服従」
「ここにとどまっていなさい。」「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」(列王記第二2:2,4,6)
預言者エリヤが天に上げられようとする時、エリヤは三度も後継者エリシャに「ここにとどまっていなさい」と言いますが、エリシャは「わたしは決してあなたから離れません」とついて行きました。聖書は、「帰りなさい」と何度言われてもルツはナオミが行く所に従い、神の大いなる祝福を受けたと語っています。ルツの子孫から真の人となられたキリストがお生まれになったのです。エリシャもルツも、キリストへの信仰による救いが桁違いの価値を持つことを発見し、喜んですべてを犠牲にして、従い続けて手に入れました。
「キリストにあって神の御住まい」
あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。(エペソ2:22)
聖書は「教会は、神の建物であり、主にある聖なる宮であり、御霊によって神の御住まいである」と証言します。私たちは、神の平和と愛に基づく新しい家族関係を知るだけでなく、神ご自身が私たちの中に宿られ、神ご自身の霊なる御住まいとされるのです。神の恵みは、キリストにあって私たちを、恐れによらず神の愛による生ける神との緊密な交わりに導き、御利益にあらず神の御こころを行うことを喜ぶ者に変え、神と私たちを一つにするのです。私たちは御霊により神の愛に満たされ、キリストの平和が増し加わるのです。
「キリストにあって神の家族」
こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ2:19)
私たちは皆かつて、神の財産を食い潰した放蕩息子のように、神から遠く離れてわがままな罪を重ね、神を第一にせず敵対さえして御怒りを受けるべき者でした。しかし、キリストの十字架の血による救いを信じるなら、今罪が赦され、神の愛する子となり、神の家族の一員とされます。家族は互いに安らぎと励ましを得る関係ですが、また多くの方々が家族関係で悩み、苦しみ、失望していることも事実です。キリストの十字架は敵意の壁を滅ぼし、キリストの揺るがない平安と限りない愛による新しい家族関係へ確かに変えます。
「キリストによる平和の実現」
キリストこそ私たちの平和です。キリストは、隔ての壁である敵意を打ち壊し、平和を実現し、十字架によって神と和解させ、敵意を滅ぼされました。(エペソ2:14~16)
キリストこそ私たちの平和です。先ずキリストの血によってすべての罪が赦されたことこそが、神との平和を指します。次に「二つのものを一つにし、隔ての壁である敵意を打ち壊し」というのが、選民ユダヤ人と異邦人との平和を示します。キリストを信じる者は、選民も異邦人もなく、みな、キリストにあって一つとなり、キリストのからだである教会に加えられます。民族としての隔ての壁は、キリストの血によって霊的に取り除かれました。しかも十字架の血は、私たち異邦人同士の敵意をも滅ぼし、真の平和を実現します。
「キリストこそ神に近づく道」
しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。(エペソ2:13)
聖書は、神にとって私たちはキリストを知らず、この世にあって望みもなく、真の神がない者たちだと言っています。しかし、キリストが十字架上で血を流し、「完了した」と言われて息を引き取られた時、エルサレム神殿内の隔ての幕は、上から下まで真二つに裂けました。民の罪の赦しのために入る以外は、絶対に近づくことの出来ない幕が取り除かれて、誰でも神に近づく道が開かれました。神から遠く離れていた者が、キリストの十字架の血で罪が赦され、きよめられ、生ける神に近づき、真の神に仕える者とされるのです。
「私たちは神の愛の傑作品」
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。実に、私たちは神の作品であって、キリスト・イエスにあって造られたのです。(エペソ2:8,10)
恵みとは、受ける資格のない者が条件を付けずに与えられることです。神の側でその条件を満たして下さったからです。それがキリストの十字架です。キリストは十字架上から「完了した」と言われ、これは「完済した」の意です。全人類のすべての罪の負債を、キリストは十字架の贖いで完済されました。人は、自分で罪の負債を支払う必要はなく、キリストの十字架を信じれば、だれでも救われます。罪と肉欲の奴隷で、神の怒りを受け永遠の滅亡に行くべき者を、神はその愛を動機として神の愛を証詞する傑作品とされます。
「大きな神の愛に生かされる」
あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの罪の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。(エペソ2:5)
このあわれみとは、全く愛すべき価値のない者に対して無限の愛が注がれる意味です。人は創造主なる神によって造られ支えられているのに、真の神を否定し、反逆しています。しかしあわれみ豊かな真の神は、神に捨てられ滅ぶべき者のために、キリストの十字架と復活により救いの道を開いて下さいました。神はその大きな愛のゆえに、どこまでもだめな者、最もふさわしくない者を拾い上げ、最高傑作を造るためにキリストとともに生かしてくださいます。神がどんなに恵み深いかを世々に表すために、私たちを救われました。
「死んでいた者を救うキリスト」
あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては自分の肉の欲のままに生き、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:1,3)
人は具体的に罪を犯したから罪人なのではなく、生まれつき罪の性質があるために罪を犯すのです。罪は、神と人との関係を断絶させ、いのちの源である神との交わりはなく、死に至らせます。人は神と離れている限り、どんなに栄華を極めても、その人には永遠のいのちはありません。しかしキリストは、罪と汚れに死んでいた者、神に反逆するサタンに捕らえられ自分を制することができない者、肉欲の奴隷となり自己欲に生きる者、やがて神の怒りにより断罪される者を救い、生かすために十字架で死によみがえられたのです。
「聖霊に満たされる喜び」
御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。(エペソ5:18,19)
キリストの十字架を信じる者は、罪が赦される喜びを体験します。私たちの罪は、神により一つも残さず永遠に消し去られ、神の記憶の中からも全く取り去られました。しかし、聖霊に満たされた人の喜びはさらに深く、さらに大きい喜びです。神が願いを叶えて下さる喜びよりも、神ご自身を喜ぶ喜びです。決して感情的なものではなく、試練や悲しみの直中でもキリストに従う者が体験する、キリストが共におられることを知る喜びです。聖霊に満たされた人だけが、キリストのために苦しむ者とされたことさえ喜び讃美します。
「聖霊に満たされる必要」
互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。御霊に満たされなさい。(エペソ4:32、5:18)
エペソ教会の人々はすでに罪が赦されていて、他の人の罪も赦すように奨められていました。パウロはそのエペソ教会の人々に「御霊に満たされなさい」と語りました。罪が赦されることと聖霊に満たされることは別です。パウロ自身が、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行う敗北の信仰生活でしたが、聖霊によりキリストの愛に満たされて圧倒的な勝利者に変えられました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。」が目標・願望ではなく、聖霊に満たされ人の証詞です。
「聖霊に満たされる恵み」
ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)
キリストの十字架の血潮を信じることにより、私たちの罪はすべて神の前に赦されます。また罪のために死んでいた私たちが、神の新しいいのちを受けて新しく生まれ変わります。さらに聖霊が私たちのうちに来て下さり、永遠のいのちを持つ確信が与えられます。しかし御霊に満たされることは、これら以上の大きな恵みであると聖書は語っています。聖霊に満たされると、試練や悲しみがないことを喜ぶのではなく、試練や悲しみに打ち勝つことを喜びます。いつでも、すべてのことについてキリストによって神に感謝します。
「キリストによる完全な罪の赦し」
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ43:25)
黒板に書かれた文字は、どんな難しい文字でもたくさん書かれていても、黒板消しを使えば全部消えてしまい、全く存在をなくしてしまいます。私たちの罪はすべて神の前に記録されましたが、神はキリストの十字架の血潮によりそれをすべてぬぐい去られました。私たちの罪は、神により一つも残さず永遠に消し去られ、審判の時にも出て来る心配はありません。さらに神は私たちの罪を心にとめられず、神の記憶の中からも全く取り去られました。神がキリストの十字架の血潮により赦された罪は神の前に永遠に赦されたのです。
「キリストによる罪の赦しの程度」
もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ込んでください。(ミカ7:19)
私たちの罪はどの程度赦されると聖書は言っているのでしょうか。「海の深みに投げ込んで」とはどういうことでしょうか。日本は島国で、日本海溝の最も深い所は8000メートル以上あります。もしその海面に小石を投げ込んだら、すぐに見えなくなり深い海底に沈んでしまいます。再び取り戻すことは不可能です。私たちが自分の罪を悔い改めてキリストの十字架の血を信じる時、そのすべての罪は永遠になくなり、誰も取り戻すことができなくなります。どんな罪であっても、キリストの十字架により罪は永遠に赦されます。
「キリストによる罪の赦しの犠牲」
キリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ1:7)
教会に出席し聖書を学んでも罪の赦しが分からず、自分は救われないと思う方がいます。キリストを信じたが罪の赦しの確信が持てないままで教会生活を続けている方がいます。キリストを信じて罪の赦しを体験したが、また罪で失敗して罪の解決がない方がいます。このみことばは罪の赦しを約束しています。罪の赦しにはいつも犠牲が必要で、赦される者より赦す者が大きな犠牲を払います。神のひとり子キリストの十字架の死は、神が与えることができる犠牲のすべてであり、私たちの罪のために惜しまずに与えられました。
「王なるキリスト発見の証拠」
彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。(マタイ2:12)
王なるキリストに出会い、礼拝した博士たちは、神の警告に従い別の道を通って帰りました。これは、キリストに出会って新しい人に変えられた証拠です。ヘロデ王は博士たちに「幼子を見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言いましたが、自分の王位を脅かす幼いキリストの殺害を企んでいました。キリストを信じた後にも、昔の罪の道へ引きずり込む誘惑の声があります。神はみことばにより別の道を行くように導かれます。それは初めての道ですが神の臨在の道です。その道に従う時、神の祝福は確かです。
「王なるキリスト発見の喜び」
それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2:11)
博士たちは星に導かれて、キリストご自身に出会い、礼拝するために来ました。彼らは幼子の上でとどまった星を見て、ついにキリストに出会う聖なる喜びが溢れました。世が与える条件付きで消えていく喜びとは全く違います。彼らは幼子の中に王なるキリストの姿を見、ひれ伏して礼拝しました。クリスマスはキリストを礼拝する時です。黄金は王に、乳香は神に、没薬は救い主に献げられ、キリストへの信仰告白に他なりません。キリストの十字架の救いを信じる者は、王、神、救い主なるキリストを知る喜びに圧倒されます。
「王なるキリスト発見への渇望」
ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。(マタイ2:2)
キリスト誕生を羊飼いの次に目撃する「東方の博士たち」は、ユダヤに来てキリストの居場所を尋ねました。彼らは博士で知識、地位、富もあり、旧約聖書にも通じ、異邦人ですが救い主を待望する人々です。異常な光を放つ星を発見しキリスト誕生を知り、是非とも救い主に会いたいとユダヤ行きを決行したのです。何ヶ月も続く旅となり、無謀で無駄で無意味だと思われたかも知れません。しかし、誰でもキリストに出会うなら、人生が新しくなり、過ぎ去る幸福の追求から永遠に続く希望と平安と愛に生きる人生に変わります。
「神のみことばに従うマリア」
恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。(ルカ1:30,31)
キリストの誕生のために何故マリアがその母として選ばれ、神の祝福を受けたのでしょうか。彼女が神に従う人であったことは最も重要なポイントの一つです。人は力関係、利害関係で従うことがあります。マリアは神のみことばを聴き、神のみこころを示された時に従いました。しかし神の計画をすべて理解したから従ったのではありません。かえって婚約者ヨセフに誤解され厳しい困難が予想される時にも神に従いました。彼女は普段に聖書を学び、聖書に聴き、聖書に従うことが、神と共にある喜びの道だと知っていたのです。
「聖霊の火に焼き尽くされた人」
主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。民はみな、これを見てひれ伏し、「主こそ神です」と言った。(列王記第一18:38)
エリヤは徹底して神のことばに従い、神に一切を献げる信仰により全焼のささげ物を祭壇の上に載せました。ささげ物に三度水を注ぎ、水は祭壇の周りに流れ出しました。その時エリヤが祈り出すと、主の火が降り、瞬時に一切を焼き尽くしました。同様に私たちの信仰が聖霊の火を受けるならば、きよめの恵みの歩みが始まります。神に用いられないものはきよめられ、自分を喜ばすものもきよめられ、生ける神の新しい証拠を人々に見せることが出来ます。しかし一切を壇の上に載せなければ聖霊の火を受ける祈りは出来ません。
「生ける神に従う信仰への招き」
おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。(列王記第一18:21)
エリヤは生ける神の前に立って、生ける神に仕えていました。これは、エリヤの信仰の根拠であり、力の根源でした。エリヤの信仰は、生ける神のことばに従い、生ける神の臨在と御業を体験し、鍛錬されました。その当時、イスラエル王アハブ以下全国民が生ける神キリストを捨て、形式的で偽善的な信仰生活に陥っていました。クリスチャンとは名ばかりで、キリストの十字架と復活の力を知らない人々と同じです。二心でなく、徹底して神のことばに従い、聖霊の火できよめられ、キリストの愛に満たされる信仰があるのです。
「神が火をもって答える信仰」
かなりの日数を経て、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地の上に雨を降らせよう。」(列王第一18:1)
アハブ王が主の命令を捨てバアル神に従ったことがききんの真の原因だ、とエリヤは王に直言します。恵みの雨を止める真の原因はわがままな罪です。エリヤはその罪に取り組みました。バアルの預言者450人を集めて、エリヤは「火をもって答える神が神である」と言いました。バアルの預言者がバアルの名を大声で叫んでも全く答えがなく、エリヤは彼らの偽の信仰を明らかにしました。主の祭壇を築き直し、エリヤが主に祈ると、主の火が下りました。主に全く明け渡し従う者を、主は聖霊の火で全てをきよめて下さいます。
「神のことばの実体験の場」
ここを去って東へ向かい、ケリテ川のほとりに身を隠せ。あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。(列王第一17:3,4)
神のことばを信じて従う者だけが、神のことばを実体験します。エリヤは神のことばに従いケリテ川のほとりに身を隠しましたが、そこは孤独な場所です。アハブ王と王妃イゼベルはエリヤを殺害しようとし、エリヤへの協力者は見当たりません。しかしエリヤはそこに留まり、神の臨在を知り、神と深く交わり、神のみこころを学びました。神の臨在こそ一番の救いです。神のことば通りに、神はそこで烏を用いてエリヤを養われました。神は困難も支配し、私たちが神のことばに従うことを訓練し、神の証人と整えて下さいます。
「生けるキリストに仕える訓練」
私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。(列王記第一17:1)
「彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った」イスラエルの王アハブの時代に、エリヤは神の力により神のことばを語りました。アハブは異邦人イゼベルと結婚し、バアルの祭壇を築き、神の預言者たちを迫害しました。エリヤは迫害を恐れず、神のみことばを確信して、アハブに警告しました。その後、エリヤは神のことばに従い、ケリテ川のほとりに身を隠します。すると神のことばの通り、そこでエリヤは烏が朝夕運ぶパンと肉で養われました。神のことばに従う者は、困難な中を通っても必ず神の約束を体験します。
「神による圧倒的勝利への秘訣」
主は言われた。「バアルの祭壇を壊し、全焼のささげ物を献げよ。」ギデオンは自分のしもべの中から十人を引き連れて、主が言われたとおりに行った。(士師記6:25~27)
「力ある勇士」となるためにギデオンにチャレンジが与えられました。それは、キリストを第一にすることを徹底して、自分の生涯をキリストに献げることです。そのためにキリストへの服従が求められました。神は、ギデオンの父が持つバアルの祭壇を壊すように命じられ、ギデオンは神が言われる通りに行いました。今までの言葉や儀式だけの信仰では神に出会った確信もなく、証詞する圧倒的勝利の経験もありません。キリストを心と生活の中心にし、神の前に今なすべきことをすべて受け入れ実行することが勝利の秘訣です。
「力ある勇士と変える神の臨在」
「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」「もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。」(士師記6:12,13)
敵を恐れ隠れて農作業をしていたギデオンが「力ある勇士よ」と神に呼ばれました。「主がともにおられる」神の臨在は、臆病者を勇士に変えます。現状に失望していたギデオンは、先祖を出エジプトに導かれたのが神の臨在であるとは信じられません。ギデオンが敵から救う者となる神の選びにも、自分の背景の弱さや若さから断ろうとします。神の臨在は、神に選ばれた者が神の使命を果たす最大の秘訣です。味方もなく能力もない者でも、キリストの十字架と復活を信じる者はみな、神の臨在に触れ真の勝利者と変えられます。
「永遠のいのちを与える神の愛」
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
人のいのちはいつか尽き果てる時が来ます。しかし、聖書は、神がこのはかない私たちを愛して、永遠のいのちを与えると語っています。人間の愛はどんなに深くても限界があります。しかし神が「世を愛された」とは、世界の全ての人をひとり残らず愛しておられることです。この愛から除外される人は誰もいません。「そのひとり子」キリストは私たちを愛して、私たちのすべての罪を赦すために身代わりに十字架で死なれました。それはキリストをただ信じるだけで救われ、行いでなく信じる者が永遠のいのちを持つためです。
「圧倒的な勝利へのキリストの選び」
手で水をすすった三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミディアン人をあなたの手に渡す。残りの兵はみな、それぞれ自分のところに帰らせよ。(士師記7:7)
ギデオンはイスラエルをミディアン人から救うために選ばれ、共に戦う戦士が三万二千人集まりました。しかし神による選抜テストが行われ、「恐れおののおく」二万二千人が帰って行きました。失敗することの恐れ、人々からの評価の恐れ、困難さの恐れ等で言い訳する人が多くいます。残った一万人は水辺に行き、手で水をすくって飲んだのが三百人で、他は膝をついて水を飲みました。これは緊張感のテストで、自分中心でなくキリストを信じて従う人は、キリストの愛による圧倒的な勝利を体験する人生に選ばれています。
「キリストの救いの尊い価値を確信する」
お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。(ルツ1:16)
飢饉のためにベツレヘムからモアブへ移住したナオミ一家でしたが、その地で夫が死に、二人の息子はモアブの女性と結婚した後にやはり死にました。飢饉が去りベツレヘムに帰る時、ナオミは二人の嫁に自分の家に帰るように勧めましたが、兄嫁のルツは犠牲を承知で姑に従う決断をしました。ルツは姑と約十年間共に生活し、夫や息子たちの死という不幸に直面しても神のご支配を信じるナオミを見て、同じ信仰に生きる決心をしたのです。キリストの救いを信じる尊い価値を確信していたので、いかなる犠牲も払う覚悟でした。
「キリストの愛は心から赦す者に変える」
彼の仲間はひれ伏して、「もう少し待って下さい。そうすればお返しします。」と嘆願した。しかし彼は承知せず、負債を返すまで牢に放り込んだ。(マタイ18:29,30)
一人の家来が王から、彼が決して返済できない多額の借金を免除されました。その直後、自分に少額の借金がある仲間に対して、返済の延期を拒み借金を免除しませんでした。キリストは、一人一人が神に対して大きな罪の負債があること、またその負債は自分では決して払いきれないことを示されました。しかし、キリストの十字架を信じる者はすべての罪の負債が赦されます。神の一方的な恵みです。誰かに心を閉ざしたままで、赦していないことはありませんか。キリストの愛による罪の赦しは人を積極的に赦す者に変えます。
「キリストを信じて永遠のいのちを持つ」
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
(ヨハネ3:15)
死がすべての終わりとすれば、なんと悲しく、空しく、惨めではないでしょうか。目の前の愛する者の死をどんなに美しい花や慰めの言葉で飾っても、本当の希望を見出すことはできません。しかし、キリストは死んでも死なない永遠のいのちを与えるために十字架でいのちを捨て、死からよみがえられました。キリストの下さるいのちは死に打ち勝ついのちです。また希望と愛と喜びを生み出す新しいいのちです。神は、キリストの十字架による救いを信じるすべての者に、永遠のいのちとすべての罪の赦しを与えて下さるのです。
「上げられた蛇こそキリストの十字架」
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。(ヨハネ3:14)
旧約聖書民数記に記された出来事です。出エジプト後、荒野での苦しい生活で人々は神とモーセに逆らい、神は彼らに猛毒の蛇を送られました。蛇にかまれて多くの人々が死に、かまれた人々は悔い改めて神に救いを求めました。神はモーセに命じて、青銅の蛇を造り旗ざおの上に付けさせ、「それを仰ぎ見れば生きる」と語られました。みことばを信じて青銅の蛇を見上げた者はみな救われました。これはキリストの十字架のひな型で、今、キリストを信じて十字架を見上げる者は、すべての罪が赦され、永遠のいのちを持ちます。
「救いの主導権は神にある」
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
このみことばは、私たちの救いのための主導権は、神にあるということを示しています。神は、御子を与えるほどに私たちを愛して下さいました。キリストもご自分のいのちを与えるほどに私たちを愛して下さいました。神は、わがままな罪に汚れた者、神に愛される筈のない者さえも愛して下さいます。キリストは、自分の力では決して自分を罪から救うことができない、絶望的な私たちを救うために来て下さいました。私の力、知識、善行ではありません。神が進んで初めから愛し、私を救い、永遠のいのちを与えて下さるのです。
「御霊によって生まれる必要」
まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。(ヨハネ3:5)
キリストは、人は新しく生まれることがどうしても必要であると、パリサイ人でユダヤ人の議員であるニコデモに語られました。神の律法に精通し熱心に実行し、人を指導する立場で権威ある存在のニコデモでしたが、イエスが語られた「御霊によって生まれる」ことが正しく理解できませんでした。肉体的誕生は肉体的いのちを生み出し、霊的誕生が霊的いのちを生み出します。神の国に入るためには御霊によるいのちが必要です。十字架につけられたキリストを信じる者は、誰でも御霊によるいのち、永遠のいのちを持つのです。
「敵だった時に注がれた神の愛」
敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。(ローマ5:10)
神に対して不信仰で不敬虔な者や神を離れわがままな罪を犯す者だけでなく、神を憎み神に敵対する者さえも、神は決して見捨てず救いを用意しておられます。神はご自身に敵対する者をも愛して、キリストの十字架の死によって神と和解できるようにされました。キリストの十字架の死によって神と和解した私たちはもはや神の敵ではありません。キリストの復活のいのちと力にあずかり、キリストとのいのちのつながりを持つ神の子とされるのです。永遠のいのちと罪に打ち勝つ力が与えられ、必ずキリストの救いを確信します。
「キリストの内住こそが救い」
だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(ヨハネ14:23)
キリストは私たちの心の中に来て下さり、開かれた人の心に住んで下さいます。キリストは私たちを救うために十字架で死に、私たちへの神の愛の事実を示し、私たちに神を愛する心を与えて下さいます。キリストを人生の中心に迎えた人の心にキリストは住んで下さり、その愛と喜びと平安で人生を満たして下さいます。自分のわがままな罪のために人間関係が壊れ、失望と挫折、孤独と不安の中にあっても、キリストはその人の心に来て住んで下さり救いとなられます。キリストに従う人は皆、キリストの愛と内住を実感します。
「弱かった時に注がれた神の愛」
実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。(ローマ5:6)
私たちが、神に対して不信仰で、神に従うことができず、神の前に弱くて不敬虔な者であった時に、キリストは私たちのために死んで、神の愛を示されました。「弱かった」とは「絶望的」とも訳されます。私たちは神の前に罪人であり、自分の罪を自分では赦すことも贖うことも全くできません。どんなに立派な行為も不断の努力も無償の犠牲も私たちが救われるための根拠にはなりません。キリストは、神のご計画において定められた時に従って、私たちのために十字架で死に、すべての罪が赦される救いの道を完成されました。
「罪人であった時に注がれた神の愛」
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)
聖書は、キリストは私たちのために死なれたと語っています。キリストの十字架の死こそ私たちに対する神の愛の究極の証明です。神の愛は、私たちがまだ罪人であったときに注がれています。聖書は、神を離れ、神を畏れず、神に従わなかった時、人は神の前に罪人になったと言っています。罪に堕落した不義な者、汚れた者であり、神に愛される筈のない者、価値のない者になったのです。しかし、神はキリストの十字架によって、私たちの罪を赦し、罪の力から解放して、私たちに対するご自分の愛を完全に証明されたのです。
「愛こそが神のプレゼント」
私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:5)
私たちが直面する人間関係の問題は、神の愛が私たちの心に豊かであれば殆ど解決するのではないでしょうか。愛のない自分に失望していませんか。神の愛はキリストを信じる者に「与えられた聖霊によって」賜物として私たちの心に注がれるのであり、決して私たちが作り出すものではありません。キリストの十字架による救いを信じる者は、罪の赦しと永遠のいのちと同時に神の愛を与えられます。キリストと共に歩む人生は聖霊によって注がれる神の愛に生きる人生です。神の愛は私たちが互いに愛し合うことを当然とします。
「聖霊の満たしを受けた祈り」
彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。(使徒1:14)
聖霊のバプテスマの約束を「待ちなさい」と言われた弟子たちは、キリストの命令に従いって10日間祈り続けました。祈りの中で、弟子たちはキリストに従えなかった自分の実質が見えて来て、わがままで惨めな自分を認めました。彼らはすでに信者でした。神の前にすべての罪を悔い改め、もう一度新しく造り変えて下さいと全面的に明け渡して祈りました。弟子たちは「心を一つにして」祈りました。赦し合い、思いも心も一つになって神の前に祈り、一つになって聖霊の導きに全てをゆだねて祈り抜き聖霊に満たされました。
「キリストの福音の力」
私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)
人には救われなければならない理由があります。それは人間の罪深さです。人類の始祖アダムが罪を犯して以来、人間は罪の性質を受け継いでいます。罪は私たちの修養・努力で解決できるものではありません。また罪の持つ破壊性です。罪は私たち自身を破滅させ平安を奪い、人間関係を不幸にして周囲の人々を悲しませ、神との関係を分断し神の祝福を奪うものです。しかし福音は私たちを罪から救う神の力です。キリストの十字架と復活により罪の赦しと永遠のいのちが与えられ、聖霊により罪の力に打ち勝つことができます。
「大いなる祝福への分かれ道」
ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。(民数記14:9)
神の約束を信じて神の全能の力によりエジプトを脱出後、イスラエル人はモーセに導かれて約束の地カナンに入る筈でした。約束の地を目前にして12人の偵察隊が遣わされましたが、カナンの強そうな民や城壁を見て、10人は恐れに取り憑かれ人々を失望させ、ヨシュアとカレブだけが約束の地へ進もうと人々を励ましました。私たちを罪と死から救われるキリストは更に大いなる祝福へと導かれます。神の真実に信頼し、あらゆる不安を神に委ね、神の臨在の約束を信じて従い続け、神の祝福のチャンスを失ってはなりません。
「聖霊のバプテスマは神の約束」
エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。(使徒1:4,5)
「聖霊のバプテスマ」は「きよめの恵み」とも言われます。私たちのわがままな罪がキリストの十字架ですべて赦され救われても、罪を犯してしまう罪の性質がまだ残っています。聖霊は罪の性質をきよめて、私たちの心を聖霊によるキリストの愛で満たして下さいます。この聖霊のバプテスマは父なる神の約束です。神の約束は必ず実現すると信じきる人は幸いです。この約束はキリストに従うことに失敗した人のための約束です。キリストは決して私たちを見捨てられません。失敗した者でも信仰生涯の勝利者に変えられます。
「クリスチャンの第一の使命」
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒1:8)
復活されたキリストに対して弟子たちは国の復興を期待しましたが、キリストは更に重要で優先すべきことを彼らに約束されました。十字架を前にしてキリストを見捨てて逃げた弟子たちの心には、失望感や敗北感とともに嫉妬心や恐怖心がありました。しかし、聖霊の力を受けた弟子たちは全く変えられ、罪が赦されている自覚があるだけでなく、罪から解放されている確信がありました。また福音を全世界に宣べ伝える勇気はありませんでしたが、キリストの証人として、自分の言葉と生活を通してキリストご自身を示しました。
「聖霊の力を受ける場所」
見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカ24:49)
キリストは弟子たちに、約束の聖霊が与えられ、力を受けるまでは都にとどまるように命じられました。それは、弟子たちが自分自身の力ではキリストの復活の証人としての備えが整わず、遣わされることもないことを示すためでした。キリストが、「都に」とどまるように言われたのは、都エルサレムはキリストが十字架につけられた苦難の場所だからです。また都は弟子たちがキリストを捨てた敗北の場所だからです。キリストは、聖霊の力により苦難の場所も敗北の場所も勝利の場所に変えられることを体験させて下さいます。
「キリストの十字架による救いは恵み」
イエスは言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)
この犯罪人は、神に敵対し、平気で罪を犯し続けて来て十字架刑にされた筈です。その犯罪人が、十字架上で神を恐れ、神の前に自分の罪を認め、キリストの救いを信じて求めました。彼が信じたのは、人々が熱狂した奇跡を行われるキリストではなく、人々に罵られ捨てられ、十字架上で血まみれの無力なキリストです。誰も信じてくれないことかも知れません。キリストだけは、この犯罪人の心を見てその信仰を喜び、永遠のいのちを約束されました。過去が現在がどうであれ、「今日」キリストはあなたを救うことが出来ます。
「十字架上のキリストこそ救い主」
「だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:41,42)
十字架上で血まみれのキリストは、自分を十字架につけた人々のために「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。そのキリストを人々は嘲り罵り続けたのです。すぐ隣で十字架につけられた犯罪人の一人は、その一部始終を見て、キリストが罪のない御方だと分かり、御国の法廷での赦しと、キリストが御国の権威を持つ主なる神であることを知りました。十字架刑で苦痛と絶望しかない彼は、キリストを見て、罪人を決して見捨てない神の限りない愛を知り、罪人を救うために十字架につけられた真の救い主と信じました。
「キリストの十字架は罪を赦す愛」
イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)
自分の過去を振り返った時、「もう決してしない」と言いながら、同じ失敗、わがままな罪を何年も犯し続けていませんか。キリストは十字架上で、ご自分を信じない人々のことを「自分が何をしているのかが分かっていない」と言われました。私たちは、愛したいけれども愛せない、赦したいけれども赦せない、きよく生きたいけれどもきよくなれない、心の闇を持つ人間です。聖書は、それを罪と言い、キリストはその罪が赦される必要があることを示し、すべての罪を赦すために私たちを愛し身代わりに十字架で死なれました。
「キリストの復活への疑いと不理解」
トマスは「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」と言った。(ヨハネ20:25)
トマスは目で見ることのできる証拠を要求しました。自分自身の目で見て、十字架の死の前に自分が知っていた同じキリストであるかを確かめたかったのです。確かな証拠は、十字架の苦難のしるしであるキリストの手と脇腹の傷です。熱心にキリストを信じていたトマスにとって、キリストの十字架での手と脇腹の傷は、キリストに裏切られた失望のしるしでした。しかしキリストは復活し、その十字架での手と脇腹の傷はすべての人の罪が赦されるしるしであり、キリストを信じる者が永遠のいのちを持つことを証明されました。
「キリストの復活こそ救いの真実」
そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。(コリント第一15:17)
キリストの復活こそキリスト信仰の土台です。キリストの復活の事実がなければキリストの福音は偽物であり、救いもありません。聖書は、人間の不幸の一番の原因はわがままな罪であり、貧乏でも病気でもないと語ります。その罪をすべて赦すために罪のないキリストが私たちの罪をすべて負い、十字架で身代わりに死んで下さいました。このキリストの救いが真実である証拠としてキリストは復活されました。復活のキリストを信じる者は、罪の赦しを確信し、救いの真実を知り、本当に生まれ変わった人生をスタートします。
「復活のキリストによる救いの確信」
彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。(ルカ24:10,11)
一番最初に復活のキリストに出会った女たちは、使徒たちに報告しましたが、彼らは信じませんでした。キリスト教にキリストの復活がなければ信じられるとか、キリストの復活がなくてもキリストの教えを守っていけば良いと思っている人がいます。「互いに愛し合いなさい。」「あなたがたの敵を愛しなさい。」しかし私たちにはわがままな罪があり、良いことだと分かっていてもできません。キリストの十字架と復活を信じる者は、わがままな罪から解放され、永遠のいのちを持ち、喜びと平安と希望に満ちた人生を体験します。
「復活のキリストによる永遠のいのち」
あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。(ルカ24:5,6)
教会に出席するだけでは救われません。聖書を学び、祈りを繰り返しても永遠のいのちは持てません。礼拝も、献金も、奉仕もそれだけでは私たちを救いません。どんなに立派で、熱心で、犠牲的な信仰に見えても、それは死んだものです。死に打ち勝ちよみがえり、今も生きておられるキリストだけが私たちを救って下さいます。復活のキリストを信じる者はみな永遠のいのちを持ち、わがままな罪に敗れた惨めな人生が全く新しくされます。「わたしを信じる者は死んでも生きるのです。あなたは、このことを信じますか。」
「途方に暮れないで復活のキリストを信じる」
そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。そのために途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。(ルカ24:3,4)
最初のイースターの朝、主イエスの死体に香料を塗ろうと数人の女性たちが墓に来ましたが、墓の入口の大石は転がされ、墓の中に主イエスのからだはありませんでした。女性たちは「途方に暮れて」と聖書は記しています。今日でもキリストの復活を聞くと、人々は途方に暮れて、非科学的で信じられないと言います。しかし、キリストの復活の事実こそが私たちの救いの根拠であり保証です。復活のキリストを信じる時、私たちの罪はすべて赦され、心は愛に新しくされ、永遠のいのちを持ち、私たちも復活する希望を持ちます。
「復活されたキリストを確信する信仰」
ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。(ルカ24:6)
キリストが死から復活されたことこそ、キリスト信仰の確信です。キリストの復活は、キリストご自身が公生涯で何度も語られたと福音書に記されています。「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」キリストはご自身の十字架とともに復活をいつも意識し弟子たちに予告されていました。私たちはキリストの復活を弟子たちのようには体験できません。しかしキリストのみことばにより、キリストの十字架による罪の赦しと復活による永遠のいのちを確信できます。
「キリストの十字架こそ安息する信仰の根拠」
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。こう言って、息を引き取られた。(ルカ23:46)
十字架上での七番目で最後のみことばです。地上での生涯の最期に、キリストはすべてを父なる神の御手にゆだねられました。これこそキリスト信仰の秘訣です。聖書が教える信仰とは、修養努力や善行を重ねて自分の頑張りで神に受け入れてもらうことではありません。私たちのわがままな罪がすべて赦され永遠のいのちを持つために、キリストの十字架により救いのわざがすべて完成した事実を信じることです。私たちのために十字架でいのちを捨てて愛を示して下さったキリストご自身に心と生涯をゆだねて安息する信仰です。
「キリストの十字架による救いの完成」
イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。(ヨハネ19:30)
キリストの苦難の生涯の目的は十字架で遂に「完了した」のです。私たちの救いのための神の側のすべてのわざが「完了した」のです。キリストの十字架により、すべての人の罪が赦され、神の前に義とされ、永遠のいのちを持つ者とされる救いの道が開かれました。キリストの十字架により、私たちは神と和解をし、神の怒りから救われ、神の子とされ、恐れなく神の前に立つことができるのです。過去の失敗、人々の評価、罪に無力なことを恐れることはありません。キリストの十字架は、救いを受ける私たちには神の力です。
「十字架で救いを成し遂げたキリストの渇き」
イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。(ヨハネ19:28)
食物がなくても少しは耐えられます。しかし、水がないと直ちに生命の危機に直面します。渇きこそは人間の味わう肉体的苦しみの窮みだとも言われます。キリストは、私たちの罪の身代わりに神から見捨てられ、罪のさばきを受ける霊的な苦しみを味わうだけでなく、生命を失う肉体的苦しみも私たちに代わって受けられました。これは、キリストが真の神でありながら、真の人であられたことを示すものです。またキリストの十字架は聖書の預言の成就であり、神の救いの計画の完成であり、私たちが信じて救われる根拠です。
「キリストの十字架は私たちの罪の身代わり」
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ27:46)
これは十字架の死の苦しみの叫びです。両手、両足を釘付けにされた痛み。身体の重みで両手、両足が引き裂かれる激痛。キリストの身体は苦しみに耐える極限に達していました。しかし、キリストの本当の苦しみは、人々のすべての罪を負って、罪人となり、最も愛する父なる神から捨てられなければならないことでした。わがままな罪を重ねた罪人である私たちのために、いのちを投げ出し、罪のさばきをすべて受けて下さったのです。キリストは私たちの代わりに、神から見捨てられ、私たちを罪から救って下さったのです。
「人間関係を解決するキリストの十字架」
イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。(ヨハネ19:26,27)
これはキリストが十字架上で語られた第三のみことばです。キリストの愛は、私たちの実際問題に一つ一つふれて最善の解決を与えて下さる愛です。私たちは、難しい人間関係で生涯悩むことがあります。聖書は、夫婦、親子、兄弟、友人の間に争いや憎しみが起きる最大の原因はわがままな罪だと言っています。自分本位にだけでものを考え、自分の都合ばかりを優先し、隣人への愛を忘れています。キリストの十字架は、自己中心の罪を赦し愛の心に変え、断絶し壊れた人間関係を新しくし、隣人を愛する者と変えて下さいます。
「十字架上で知ったキリストの救い」
「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。(ルカ23:33)
十字架刑はこの世で最も残酷な刑の一つです。手足を十字架に釘づけにさられ、何日もかけて死の恐れと苦しみを味わい尽くし、気が狂い、餓死し、鳥に食い荒らされるのです。人にも神にも全く見捨てられ、絶望のどん底です。キリストは、私たちの罪の身代わりとなり十字架にかかられました。キリストの隣で十字架につけられた犯罪人の一人は、慰めも希望も一切無い最暗黒の中に立たされ、そこで罪人を見捨てないキリストを信じて救われました。誰がそれを信じるでしょうか。しかし信じる者がみな救われるのが福音です。
「すべてを惜しみなく与えるキリスト」
私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(ローマ8:32)
この約束は、神の約束を集めたようなものです。キリストを死に渡された神は、私たちが必要としているならすべてのものを与えて下さると言うのです。神は、一つの制限も無く惜しむことなく私たちの必要を満たして下さいます。神は、ご自分の御子さえも惜しむことなく十字架につけられたからです。神は自ら進んで御子を私たちに与えて下さいました。キリストは自ら、十字架の上で私たちの罪のためにいのちを捨てられました。それは、キリストがあなたにすべてを与えられたこと示しています。あなたは信じますか。
「十字架上のキリストのあり得ない救い」
十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。(ルカ23:39)
民衆は「もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」リーダーたちは「十字架から降りて貰おう。そうすれば信じよう。」十字架にかけられた強盗たちもキリストを嘲り罵りました。キリストの救いを口にしながらキリストを馬鹿にして笑い、誰もキリストの救いを信じていません。しかし犯罪人の一人がキリストを罵り続けた時、もう一人の犯罪人はキリストの十字架が自分の罪を赦し救うためだと分かり信じて救われました。十字架のことばは、滅びる者には愚かでも救われる者には神の力です。
「十字架上のキリストを見て真の神を知る」
もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。」(ルカ23:40)
キリストの左右に二人の強盗が十字架につけられました。十字架刑にされたキリストをすぐ隣で罵り続ける強盗を「おまえは神を恐れないのか」ともう一人の強盗がたしなめました。神などいないと罪に罪を重ねて来た強盗が、キリストの十字架上の御姿を見て真の神を知り、神の愛を見たのです。十字架上で血まみれになられ、人々に嘲られ、捨てられたキリストを見て、罪を知らない方が私たちのために罪となられたと知り、神を恐れました。キリストの十字架こそ、神の愛と神の義を満たし、信じる者に救いを確信させる基です。
「キリストの十字架を見て罪を悔い改める」
おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしていない。(ルカ23:41)
かつて情け容赦無く犯罪を重ね、一切反省せず、冷酷極まりない強盗は十字架刑にされ、すぐ隣で同じく十字架刑にされたキリストが「父よ、彼らをお赦しください」と人々への赦しを祈られたのを聞きました。彼は、もう一人の強盗がキリストを罵るのをたしなめ、自分の罪を自覚し十字架刑は当然の報いだと認めました。今まで神を恐れず、もう一人の強盗と一緒にキリストを罵っていたのに、キリストを罪のない御方と告白しました。自分のわがままな罪を悔い改めた者の前にキリストの十字架による救いは用意されています。
「絶望の底でもキリストの救いを確信する」
イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。(ルカ23:42)
十字架上のキリストが「父よ、彼らをお赦しください」と人々への赦しを祈られたのを聞いた犯罪人の一人は、キリストを救い主と信じました。奇跡を行われるキリストではなく、民衆に罵られ、権力者たちに嘲られ、十字架刑の強盗にも罵られるキリストを信じました。十字架上のキリストこそ、神の御国の権威をもつ救い主と信じました。彼は自分を裁いた世の法廷以上の法廷があることを知り、自分のすべての罪を認めてキリストの救い、永遠のいのちを信じました。世の絶望の中でもキリストの救いを体験できます。
「今日、キリストとともにパラダイスに」
イエスは言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)
キリストが十字架につけられた時、二人の犯罪人が両側に十字架につけられました。人々は「もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ」とキリストをののしり、二人の犯罪人も一緒にののしりました。ところが、「父よ、彼らをお赦しください」とキリストが人々への赦しの祈りをされたのを聞いた犯罪人の一人は、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」と叫びました。キリストは「もう遅い」とは言われず、最悪最低の罪人も決して見捨てずに、神の愛に満ちた「救い」を約束されました。
「すべての罪を赦すキリストの十字架」
イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)
これはキリストが十字架上で最初に語られたみことばです。人々の犠牲となり磔の刑を受けたある人物は「七回生まれ変わって、敵を恨み返してやる」と言ったそうです。しかしキリストは呪いでも憎しみでもなく愛による赦しのみことばを語られました。人はキリストによる罪の赦しが必要です。人は神の前にみな罪人でわがままな罪が不幸の一番の原因だと聖書は言っています。神は罪を憎まれますが人を愛してその罪を赦して下さいます。キリストはすべての罪を赦すために私たちの身代わりに十字架でいのちを捨てられました。
「恐れを締め出すキリスト」
恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。(ルカ1:30,31)
楽しい雰囲気ではなく、最初のクリスマス・メッセージには「恐れることはありません」とのみことばが度々出て来て、マリアも恐れました。神は、マリアに最も神聖で親密な関係を求められました。キリストを胎内に宿して、キリストご自身の母親になることです。神は私たちにも同様の関係を求めておられ、キリストを信じる者の心にキリストご自身が宿られます。キリストは「平和の君」であり、神の完全な愛です。キリストを信じて従う心には、キリストの愛が注がれ、恐れが締め出され、キリストの平和が支配します。
「キリストを受け入れた者は祝福された者」
ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。(ルカ1:48、49)
神の救いのご計画に「あなたのおことばどおり、この身になりますように」と決心したマリアですが、婚約中の妊娠はヨセフとの婚約解消、不貞の汚名を覚悟してのことです。しかし、マリアの心は喜びに溢れ神への讃美が湧いて来ました。キリストを救い主と信じる者の心にキリストご自身が来られ、試練が迫り不安が増し加わる状況でも、わがままな罪が赦され永遠のいのちを持つ喜びは消えません。「幸いな者」は「祝福された者」と訳され、誰でも神に信頼し従った時、神の奇跡により人々に「祝福された者」と呼ばれます。
「みことばを信じる者の心を変えるキリスト」
マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(ルカ1:38)
マリアは、「聖霊があなたの上に臨み」キリストを胎内に宿して、キリストの母親になると、更に「神にとって不可能なことは何もありません。」と御使いに告げられます。するとマリアは、素直にみことばを信じ、全面的に神に明け渡す決心を祈りました。聖書は、主なる神が約束しておられることは必ず実現すると語っています。キリストの十字架と復活は預言通りに実現し、キリストを信じる者はすべての罪が赦され永遠のいのちを持つことを確信します。みことばに従う者はキリストが心に来て下さる奇跡を必ず体験します。
「キリストご自身が心に来て下さる奇跡」
御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」(ルカ1:35)
マリアは、キリストを胎内に宿して、キリストご自身の母親になると、御使いに告げられます。神は、マリアと個人的な親しい関係を築き上げたいと願われました。私たちも、キリストと個人的に親しい関係に入るように召されています。私たちの体が、復活されたキリストを宿す宮となるのです。マリヤが「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」と問うと、御使いは「聖霊」の働きによると答えます。キリストの十字架を信じてわがままな罪を赦された人は、聖霊により復活のキリストが心に来られたことを確信できます。
「不平の心を持つ者へのキリストの愛」
子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。(ルカ15:31)
兄息子が持っている不平の心の原因は、自分自身のことしか考えられず、自分の本当の価値がわからず人生を無駄にし、自分の功績を基にして誇ることです。その兄息子に父親は、「私のものは全部おまえのものだ」と父親の有り余る蓄えを思い出させ、「おまえはいつも私と一緒にいる」と父親がいつでも共にいることを思い出させようとします。キリストの十字架と復活は、私たちのわがままな罪を全部赦し愛と喜びに溢れた心に変え、死に直面してもキリストが必ず共におられ永遠のいのちを持つ平安と希望の人生へ導きます。
「不平の心を愛の心に変えるキリスト」
すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。(ルカ15:28)
聖書に、父親から財産の分け前を貰い家出し、その金を使い果たし落ちぶれた姿で帰って来た息子を、父親が駆け寄って迎え、祝宴を始めて歓迎した、箇所があります。この息子には兄がいて、弟息子に対する父親の態度に怒り、不平を言います。不平の心は喜びも平安もなく、すねて不機嫌で怒ります。家族の喜びを破壊し、家族の交わりに入ろうとしません。この不平の心は、自分自身のことしか考えることができません。キリストを信じる人はキリストの愛の心を持ちます。どんな人でも不平の心が愛の心に変えられます。
「キリストの愛はいつまでも絶えることがない」
世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。(ヨハネ13:1)
「最後まで」は「極みまで」とも訳され、「最後の最後まで」の意味を持つことばです。これは、私たちのわがままな罪を赦すために、十字架でいのちを捨てるほど私たちを愛されたキリストは、永遠に私たちを愛し、その愛はいつまでも絶えることがないということです。キリストがあなたをしばらく見放されることがあっても、そこにはキリストの愛による永遠に価値ある計画があなたのために用意されています。永遠のいのちを与えるために死からよみがえられたキリストが、キリストを信じる者を見捨てることは不可能です。
「キリストによる本当に価値ある人生の発見」
しかし、彼は我に返って言った。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。」(ルカ15:17)
このたとえに出て来る息子は、人生に大失敗をして「もう、息子と呼ばれる資格はありません」と、父親に、自分はもはや価値がない存在だと言っています。以前、この息子の人生に対する確信は、本当に価値ある人生のためには父親の権威の下から離れなければならないということでした。多くの人も、本当に価値ある人生のためには、神の愛もキリストの救いも必要ないと思い込んでいます。しかし、「我に返って」自分の愚かさを認めた人は、キリストを信じて罪が赦され永遠のいのちを持ち、神の愛の豊かさを発見します。
「死んだような人生を生き返らせるキリスト」
「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」こうして彼らは祝宴を始めた。(ルカ15:24)
この息子は、自分の計画で「遠い国に旅立ち」、自分の判断で財産を使い果たしました。しかし自分の計画を越えた飢饉が起こり、他人の判断で豚の世話を「させられました」。自由と豊かさを求めて実行したのに、不自由で困窮した生活を強いられました。聖書は、わがままな罪ある人を神から離れて「死んでいた者」と断言しますが、キリストは「失われた者」を捜して救い、限りない神の愛を知り永遠のいのちを持つ者に変えて下さいます。どんなに神から離れて長い間空回りをした人生でもキリストは救って下さいます。
「罪人を待ち続け赦し喜ぶキリストの愛」
まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。(ルカ15:20)
聖書に、自分勝手な生活がしたくて、父親から財産の分け前を貰い家出した息子が出てきます。息子はこの金を使い果たし落ちぶれた姿で帰って来ましたが、父親は息子に駆け寄って迎え、一番良い着物を着せ、祝宴を始めて歓迎しました。この父親こそ、この息子のように自己中心でわがままな罪人の私たちを待ち続け、罪を悔い改めてキリストの十字架を信じるならば、即座に罪を赦し、大喜びで迎えて下さる生ける真の神の姿です。あなたが神を見捨てて忘れても、父なる神は片時もあなたのことを忘れずに愛しておられます。
「キリストご自身の平安が与えられる」
わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。(ヨハネ14:27)
キリストが下さる平安は世が与える平安とは違います。平安を願っても病気、事故、裏切り、災害、介護等が日常を一変させます。そんなに悪くない、まだ大丈夫と思い込みたくても、面倒だ、苦手だと問題から逃げても平安はどんどん遠退いて行きます。キリストが与える平安はどんな状況に置かれても揺るがない平安です。十字架での処刑を前にして「わたしの平安を与えます」と言われたキリストご自身の平安です。心を騒がせる出来事が次々に起こる状況でも、死に打ち勝ちよみがえられたキリストを信じる者に必ず与えられる平安です。
「人を愛してともに住まわれるキリスト」
だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(ヨハネ14:23)
キリストを信じて、キリストを心の中に受け入れる人は、キリストのみことばを実行できる喜びを知ります。クリスチャンの真似事のようで信仰が窮屈に思えていた人も、キリストが心におられるので、キリストの愛のみことばを喜んで進んで実行するようになります。キリストに愛されていることを知り、みことばを守る人の心にキリストはともに住むと言われました。キリストは客としてではなく住人となられ、キリストとともに日々歩むことで、キリストご自身の愛、喜び、平安がその人の心と生涯を満たし続けていきます。
「キリストとの愛のつながりの証明」
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。(ヨハネ14:21)
キリストを信じることは、キリストの十字架と復活による罪の赦しと永遠のいのちを知ることであり、生けるキリストとの個人的な愛のつながりを持つことです。生けるキリストとの愛のつながりを持つ証明は、キリストのみことばへの服従によってです。キリストは「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です」と語られました。聖書通読、集会出席等を忠実に行っても、キリストとの生きたつながりはありませんが、キリストのみことばを信じて従う人は、生けるキリストとの愛のつながりを必ず体験します。
「キリストの復活は死に対する完全な勝利」
「死は勝利に呑み込まれた。」「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。お前のとげはどこにあるのか。」(コリント第一15:54,55)
聖書は、「罪によって死が入り、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」と伝えますが、人々を呑み込む怪物のような「死」が逆に呑み込まれる、キリストによる「救いの勝利」を宣言します。「死のとげ」とは罪です。キリストが、私たちの罪のために身代わりに十字架で死に、神の裁きを受け、死を打ち破って復活されたので、私たちの罪は完全に取り除かれました。罪に対する神の裁きとしての死が私たちを脅かし苦しめましたが、キリストによって罪が除かれ、死に対する完全な勝利が与えられたのです。
「キリストの復活は死の苦しみからの解放」
神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。(使徒2:23,24)
キリストの死は、すべて神の計画と目的に従ってなされ、キリストは自ら進んで、私たちの救いのために十字架でいのちを捨てられました。神は、そのキリストを死人の中からよみがえらせ、「死の苦しみから解き放たれ」ました。キリストの復活は、死に対する勝利です。死に勝利したキリストだからこそ、キリストの十字架の死が、私たちのすべての罪を赦すことを完全に保証するのです。神が計画し実行された、キリストの十字架と復活により、どんな罪でも赦されて、死の恐れからも解放され、よみがえることを確信できます。
「キリストの十字架と復活こそ福音」
わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。(ルカ24:44)
キリストは、聖書全体はご自分について書いてあると言われました。旧約聖書が預言しているキリストは、十字架の苦しみを受け、復活して栄光に入るはずであり、十字架で死によみがえられたキリストこそ、旧約聖書の預言の成就を示すものです。福音とは、キリストの十字架と復活です。キリストの十字架と復活の事実により、「キリストの名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられ」、どんなわがままな罪も赦され、永遠のいのちを持ち、誰でもが必ず喜びと希望の人生に変えられます。
「絶望の今を喜びの今に変えるキリスト」
二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。
彼らの目が開かれ、イエスだと分かった。(ルカ24:16,31)
二人の弟子はキリストの十字架の死に直面し、絶望と悲しみの中にありましたが、よみがえられたキリストが近づいて一緒に歩き始められました。しかし二人は絶望と悲しみで周りが見えなくなっていたので、それがキリストだと分かりませんでした。私たちが今最悪と思える状況に置かれても、今どんなに見捨てられた状況にあっても、キリストは決して見捨てずに、人生のどのような場面にも私たちと共におられます。敗北と思えた人生もキリストが来られると、最悪な今に意味を与え、どん底の今に希望と喜びが溢れて来ます。
「キリストの愛を確信できる根拠」
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)
キリストの十字架と復活によって、私たちのわがままな罪が赦され、永遠のいのちを持ち、キリストが共におられる「神の愛」が示されました。この「神の愛」が「私たちに与えられた聖霊によって、私たちの心に注がれている」と聖書は言っています。私たちのわがままな罪のために十字架で死に、死からよみがえられたキリストを信じる者は誰でも、この聖霊によって、キリストがいつも私たちと共におられること、私たちの罪が全て赦されたこと、今死んでも天国へ行ける永遠のいのちを持つことが確信できるのです。
「キリストの死と復活は私のため」
主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。(ローマ4:25)
キリストが十字架で死なれたのは、私たちのわがままな罪のためです。キリストを十字架につけたのは私たちのわがままな罪に他なりません。しかし、神はキリストを死からよみがえらせ、死に対する決定的な勝利を示し、十字架の死による私たちの罪の赦しを保証し確信できるものとされました。キリストの復活によって、私たちは罪と死に対する完全な勝利を与えられ、罪の赦しと永遠のいのちを確信できます。キリストの復活は、キリストを十字架につけた私たちのわがままな罪をすべて赦す、神の驚くべき愛を示しています。
「どんな罪も赦して下さるキリスト」
このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ1:7)
「謝って赦されたら警察はいらない」と言う人がいます。謝っても赦して貰えないことがあります。死んでも家族から赦して貰えない方もあります。わがままな罪の償いにと毎日善行を励んでも赦されたとは決して思えません。キリストの十字架は赦されざる者を赦すためです。どんなわがままな罪も、心に隠し続けている罪も、キリストが十字架でいのちを捨てて私たちの罪の刑罰を負われたので、神の前にすべての罪が赦されます。赦せないで悩んでいる人もキリストの赦しを受けて赦せるようになります。
「本当の自由を与えるキリスト」
ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。(ヨハネ8:36)
キリストを信じる者は、過去の全ての罪が赦され、また永遠のいのちを持つことができると聖書は言っています。それだけではありません。キリストを心に受け入れる者には、キリストご自身が来て住まわれ、キリストご自身のいのちが与えられます。このキリストご自身のいのちは私たちの心を全く新しくし、失敗による辱め、誘惑に対する敗北、裏切りによる不信などで不自由で窮屈になった心を解放し、わがままな罪で頑なになった心を自由にします。キリストの十字架と復活は、私たちの心と人生に本当の自由を与えます。
「単純にキリストを心に受け入れる」
まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。(マルコ10:15)
クリスチャンになることが、とても大変で難しいことのように思っていませんか。キリストは、子どもも理解できクリスチャンになれる、極めて単純なことであると語っておられます。キリストを救い主として心の中に迎え入れることを決心し求めるなら、キリストは必ず心の中に入って下さり、わがままな心を愛の心に変えて下さいます。しかもキリストが心に来て下さり、永遠のいのちを持つことを自覚し確信することができます。決して思い込みではなく、事実です。なぜなら、キリストの十字架と復活が事実だからです。
「キリストにより新しく生まれ変わる」
まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。(ヨハネ3:3)
家族、友達、上司等に失望し、進路、仕事、結婚等に行き詰まる時、殊に自分の弱さ・醜さに打ちのめされ、自分自身に失望する時、人生をやり直せたらと思います。聖書は、人は新しく生まれ変わり、神の愛に生きる喜びを知ることを明言しています。わがままで自分が一番の人生を悔い改め、キリストの十字架による救いを受け入れて下さい。人の評価でなく自分の本当の無力さを認めてキリストの復活の力を信じて下さい。キリストがいつも共にいて、キリストの愛が注がれ、永遠のいのちを持つ人生を誰でも必ず体験します。
「どんな苦しみの時にも慰めて下さるキリスト」
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。(コリント第二1:4)
子どもの時に周囲の方から慰められて嬉しかった経験をした方があると思います。誰にも理解して貰えない、暗闇に迷い込み光が見えない、絶えず不安が襲って来る、もう無理と諦めたくなると言う方もあるでしょう。キリストは苦しみの真ん中に共に立ち、悲しみに寄り添い、どんな苦しみの時も慰めて下さる御方です。キリストの十字架と復活は、どんな苦しみの中にある人でも救いと希望を確信できる根拠です。キリストの慰めを知ることで苦しみの中にある人を真に慰めることができ、苦難は決して無駄ではありません。
「死に直面しても私たちを見捨てないキリスト」
たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。
あなたが ともにおられますから。(詩篇23:4)
普段はとても優しく親切な方に本当に困って助けを求めると、全然頼りにならないと分かり失望したことはありませんか。病気や事故や事件で死が身近に迫って来た時、突然に死を覚悟しなけれればならない時にも、キリストは絶えずともにいて恐れから救って下さると聖書は言っています。キリストは十字架でいのちを捨て、死に打ち勝ちよみがえられました。私たちがキリストを信じ、全ての罪が赦され、永遠のいのちを持つためです。全てから見捨てられて、死の絶望が迫っても、キリストは絶対にあなたを見捨てません。
「罪人を招き救うキリスト」
医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ5:31,32)
自分の人生に感動したことがありますか。私たちは新しく目が開かれ今まで知らなかったことがわかった時に感動を覚えます。普通は、成長した達成した称賛される人生に感動するのかも知れません。しかしクリスチャンは、自分が本当は弱くて失敗だらけで何も誇れるものがないことに気づいた時に感動します。キリストの前にわがままな罪人であること認めた者は、キリストの十字架による罪からの救いと永遠のいのちを持ち、神の愛に生きる人生に招かれていて、すべての失敗にも価値があることがわかるからです。
「キリストを知ることこそ最高の喜び」
私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。(ピリピ3:8)
小さい子にとってお誕生日の興味はプレゼントを貰うことに注がれ、贈り主にはあまり関心がありません。しかし大人になると、プレゼントよりも贈り主の優しい心が嬉しくなります。キリスト信仰の真の喜びは、イエス様に何かをして貰うことではなく、キリストを知り、キリストを愛することです。キリストの十字架によりわがままな罪は赦され、「わたしは決してあなたを見捨てない」言われたイエス様がいつも一緒です。人生の暗闇でもイエス様が常に共にいて、キリストに愛されている事実を更に知る喜びを発見します。
「あなたの本当の価値を知るキリスト」
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)
自分の本当の価値を知っていますか。家柄、学歴、職歴、地位、財産等で私たちは自分の価値を計り、少しでも自分の価値を高めようと必死になります。どれも大切なことかも知れませんが、その人自身の本当の価値ではありません。「人はうわべを見るが、主は心を見る」と聖書は言っています。自分が失敗や汚点だらけで、回復の見込みがないと思う人こそ、キリストの目には本当に価値ある者、愛すべき者に見えます。キリストの十字架を信じるなら、罪が赦されて、永遠のいのちを持ち、神の愛に生きる者と変わるからです。
「人生を根本から新しくするキリスト」
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント第二5:17)
世界中の人が苦しんでいる病気が治り予防できる薬が売り出されたら、多くの方は少し高くても買い求めて使うことでしょう。もう無理で不可能だと諦めていることが本当に起きたら、人生が全く変わると思います。キリストによる救いは、「今までの人生は全く間違っていた」と断言するほどに人生を新しくします。キリストの十字架による罪の赦し、キリストのよみがえりによる永遠のいのちという根拠のある救いであり、キリストの愛が原動力となる本当の豊かさを知るからです。キリストによる新創造が必要ではありませんか。
「人生最悪でもキリストの喜びが溢れる」
様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。(ヤコブ1:2)
不幸な人生の一番の原因は病気や死であると多くの人が考えます。また貧乏や人間関係で傷つくことだと言う人もいます。聖書は、人間の不幸の一番の原因は「罪」であると言っています。わがままな罪が自分の人生を破壊し、愛のない言動が家族や周囲の方との関係を傷つけます。それ以上に不幸なのは、自己中心の心にはキリストによる限りない愛と永遠のいのちが全く見えません。キリストの十字架は「罪」を解決し、キリストとのいのちと愛の関係をもたらし、不幸のど真ん中でもキリストの希望と喜びが溢れて来る人生へと変えます。
「キリストはあなたも救います」
自害してはいけない。主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒16:28,31)
今、「死」に直面している人に、何を伝えることができますか。自殺することほど辛いことはないと聞いたことがあります。愛する人を残して死ぬことも、愛する人を亡くして残されることも辛いことです。同情も慰めも励ましも心には届きません。人には「救い」が必要であると聖書は言っています。恐れと後悔と悲しみで心が悲鳴をあげています。誰にも理解されず現状を変えることは無理だと絶望した人生さえ、キリストの十字架は希望へと救うことができる神の力、福音です。絶望した人にこそキリストの救いがあるのです。
「すべてが感謝になるキリストを知る日々」
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケ第一5:16~18)
健康で仕事も順調で家族関係も円満であれば幸せな人生だとは聖書は言っていません。自分の都合通りになることが幸せの条件であるならば、人類の大半の方は幸せではないことになるかも知れません。病気や障害を持つことになっても、仕事や進路に失敗しても、信頼していた人に裏切られても、「喜び」「祈り」「感謝」が溢れる人生があると聖書は言っています。後悔と悲しみと嘆きを抱えて生きているすべての方に、キリストが約束しておられる人生です。あなたの幸せは本物ですか。
「生まれつきの罪を解決するキリスト」
私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。(ローマ7:19~20)
人類の最大の敵は疫病や死、飢餓や戦争ではなく、「生まれながらの罪」であると聖書は言っています。人は、罪を犯すから罪人なのでなく、「生まれながらの罪」を持つので罪人なのです。キリスト信仰はその必要を「生まれながらの罪」に置きます。道徳的に悪を行った問題だけでなく、聖書は「生まれながらの罪」の問題の解決と勝利を語り、その根拠がキリストの十字架です。「生まれながらの罪」による不自由さと惨めさに悩んでいませんか。
「キリストは世の光」
「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)
イエス様は、光は見るものでなく、持つものだと言われました。試練、困難の闇が人生に迫る時、希望の光を見出そうと色々なものに目を向け解決を期待しますが、思う通りにならないと、失望、不安、怒りが心に押し寄せて来ることがあります。イエス様こそいのちの光です。このいのちの光を心に持つならば、どんな環境・状況でも言い訳をしたり、誰かを責めたり、投げ出したりすることから変えられます。決して消えないイエス様の光、私たちを生かし新しくする、いのちの光をあなたも持ちませんか。